case2. たった一度の嘘(3)
教師は、「わかりました。もういいでしょう」と言って、和子の背中をポンポンとやさしく叩いた。
「和子さんも反省して、謝っていたし」
教師が和子の体を起こして、訊いた。「もうしないって、約束できますね?」
和子は涙でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向けてうなずいたが、目は英子たちを見ていなかった。
「これからも、仲良くしましょう」と教師は言って、これでおしまいというようにポンと手を叩いた。皆はノロノロと立ち上がって、会議室を出た。
教室に戻ると、ほかの子は全員帰ったあとだった。英子たちは口をきかず、それぞれ荷物を持ってバラバラと玄関に向かった。靴に履き替える間も、誰も話さなかった。和子は、学校のすぐとなりのブロックに住んでいたので、一人でまっすぐそちらへ歩いて行ってしまった。それを見て、AとBはヒソヒソと何か言ったが、英子には聞こえなかった。二人は「バイバイ、また明日ねー」と言って、英子を残して歩いて行ってしまった。英子は一人、別の方向へと帰途についた。
気づくと息が苦しい。今の今まで、まるで息をしてなかったかのようだった。吸おうと思っても吸えず、吐こうと思ってもうまく吐けなかった。
「どうしちゃったんだろう」
いや、この奇妙な感覚は、さっきの出来事、自らがついた嘘のせいだとわかっていた。
その嘘が、体の不調以外にのちのち何にどう作用するのかが英子にはよくわからなかったが、取り返しのつかないことをしてしまったということはわかっているつもりだった。嘘は嘘なのだから。
結局、その後、英子のついた嘘がもとで何かが起こったということはなかったし、英子が責められたということもなかった。気づけば、和子と三人はいつの間にか元通りにグループ行動をしており、休み時間もいっしょに遊んでいた。あの盗難騒動もまるでなかったかのように、二度と話題に上ることはなかった。
子供だった英子も、しばらくは嘘のことが心に引っかかったまま誰にも言えずに悶々としていたが、グループで元通りにつきあううちに、いつしか忘れていった。
***
突然そのことを思い出したのは、つい一年ほど前だと言う。
「結婚が早かった友だちがいて、子供がもう小学生になって少し手も離れたからってことで、久しぶりに会ったんです。そしたら、話が子育ての悩みばっかりで」
可笑しそうに英子さんは言ってから、一つため息をついた。
「その時、彼女の話を聞いてて、あの時の私の嘘を突然思い出して、一気にあの場面に引き戻されちゃったんです。彼女、『子供って、けっこう平気でひどい嘘つくのよ』って言ったんですよね」
「あぁ、そんなような話、確かによく聞きますね。子供だから、あまり後先考えずに、その場しのぎとか…子供も子供なりに自己保身を計るっていうか」
私は、自分の知りうる限りの事例を思い浮かべて言った。
「でも、あの時の私の嘘って、何なんでしょう? だって、私は何もしてないし、されてないし、別に何も言わなくてもよかったんですよ。あれって、自己保身でも何でもないし、あの嘘で誰も得してないでしょう? ただ、断罪されて弱っている彼女をよけいに傷つけた? 追い詰めた? だけですよね。そんなことしたいわけじゃなかったのに」
ランチについてきたデザートを食べようとして、その手を止めたまま、英子さんは呟くように言った。
「一年前に思い出した時、私、あのころよりもショックだったかもしれない。急に力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになりました。もう、二十年近くもの間忘れていたことなのに、当時よりもハッキリと罪の意識というか、自分を許せないと感じてしまって。和子のしたことより、よっぽどひどいかもしれないなって」
言ったきりうつむいた英子さんを見て、私は泣いてるのかと思った。
「大丈夫ですか? きっと、その…和子さん、その方も忘れてますよ。英子さんも今こうやって悔やんでるわけですし。もう、そんなに自分を責めなくてもいいんじゃないんですか。誰だって、とっさに嘘つくことありますよ、たぶん」
「そうでしょうか」
英子さんは突然顔を上げ、挑みかかるように私を見た。
「どんな嘘、つきました? よかったら教えてください」
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