仮面の夜

三津凛

第1話

ただ、わけもなく騒ぎたいだけなんだろう。たった独りで、まるで狂人のように騒ぐ覚悟はどこにもない。どうせやるなら道連れで、それでも自己主張は捨てずにやりたかったに違いない。


ハロウィンって、絶好の作品公開じゃない?

とびっきり過激な仮装をして、渋谷に飛び出すの。ただ騒ぎたいだけの奴らとは、芸大生のあたしたちは違うってとこ見せつけたいよね。


最初に言い出したのは弘美だった。彼女は油絵科の優等生で、人一倍自尊心の強いタイプだった。気の強さが目元に現れていて、そのくせ他人の評価は細かく気にする。いつも指先が落ち着かなくて、そのせいか手先だけは器用だった。その為に一目置かれていて、多少のわがままも許される。顔はそこそこ良くて、学内でも遠慮のない男子学生はよく彼女にモデルを頼んでいる。そうした一々は、彼女の自尊心を刺激するようで弘美は律儀に毎回応えていた。

次に乗っかったのは彫刻科の修二だった。


なあ、これでさデザイン関係の人間の目に止まったりしてさあ。世の中どんなチャンスが転がってるか、分かんねーからなぁ。


彼はもう大学四年生だ。就活の方が上手くいっている気配はない。この時期になっても何も決まっていない様子を見れば分かる。それでも夢を諦めきれないのか、ぐずぐずと就活をしながら、今度は院試を受けようかなどと言っている。

私は盛り上がっていく集団を見ながら、すでにインテリアと化した大判の日本画の図版を開く。北斎の冴えた雪景色が、なんとなく私の薄ら寒い心地と妙に重なる。

「ふふ、じゃあ西洋美術史研究会としては名画あたりのコスプレもしたいところね」

私は修二がほんの一瞬白けた顔をしたのを見逃さなかった。

本音はただハロウィンにかこつけて騒ぎたいだけだった。だが、たった独りでやるだけの覚悟はない。彼が上手くいっていない現実から目をそらすための、これは壮大な舞台だった。それが欺瞞であることも、多分修二は分かっている。

だが彼は素早く立ち直る。

「遥子はなー、こんな時でも真面目だよなー」

ちょっと小太りの空気が読めない映像学科の遥子は、見るからにオタクっぽい。べっこう柄の丸眼鏡がなんとも滑稽さに拍車をかけている。

「そんなことないよー、あぁどんなコスプレしようかなぁ」

遥子も勝手に盛り上がる。

遥子は気がついていないけれど、彼女は密かにみんなから嫌われている。空気を読まない言動と、鬱陶しい見た目が彼女を知らず知らずのうちに集団から孤立をさせている。

「西洋美術史研究会」というサークル名は看板だけで、美術館へ行ったのだって数えるほどしかない。あとは交流会だのなんだのと理由をつけて飲み会ばかりしていた。私はそんな看板倒れのサークルだとは露知らず入ってしまったのだ。四月に勧誘活動をしているテーブルに広げられた、ミケランジェロの「アテナイの学堂」の正確な模写に痛く感動してしまったのがいけなかった。私は他のサークルには目もくれず、西洋美術史研究会に入ることを決めてしまった。

実際に実物を見に来てから描いたと得意げだった2年生の先輩はすぐに海外留学の為に去って行った。その後はお調子者の修二が会長におさまって、サークルを変質させてしまったのだ。他に一年生は幽霊会員ばかりで、私はたった独りきりの一年生だった。仲良くなれる人がいるわけでもなく、なんとなく距離を感じながら私はサークルの時間をやり過ごす。

昔から、生身の人間とやり取りをすることは苦手だった。無機物を相手にする方が、思いつくままの物語を与えられて気が楽だった。その為に私は苦労して芸大にまで入ったのだ。

私はてっきり、周りの人間だってそんな風な、どこか孤独で偏屈な人たちばかりだと夢想していた。だが、そんなものは私の思い込みで実際にはみんな孤独なんか知らないような、要らないような顔と生活をしている人たちばかりだったのだ。

むしろ、無機物とのあの無言の空間のやり過ごし方すら知らないような、耐えられないような人たちばかりの集まりであることに、私は心底絶望していたのだ。ストロングチューハイの空き缶ばかりが転がる部室に、私は馴染めないでいる。

歴代の先輩が寄贈していった美術関連の本ばかりを漁る私を、初めは物珍しそうに見ていた修二たちも今ではどこか鬱陶しそうに避ける。

そんな真面目なノリはいらねぇんだよ、とでも言いたげな視線を三年生と四年生から感じていた。そんな中で空気の読めない遥子だけは変わらず接してくれる。彼女は良くも悪くも、誰にも属していない。時々鬱陶しいこともあるけれど、私は他の会員ほど遥子のことを嫌ってはいなかった。

話しはどんどんと進んで、「西洋美術史研究会」の会員はハロウィン当日に思い思い仮装をして集まることに決まった。

「いいか、これは俺たちの個性を社会に発散する場なんだ」

修二が真面目くさって言う。修二は決して悪い顔はしていない。けれど、修二は彼のそうしたごく恵まれた部分にすらどこかで倦んでいる。頬骨の尖ったあたりが、薄っすらとそれを予感させる。

サークルに入部して間もない頃に、修二に新歓があるからと誘われた。とっくに最終講義の終わった学内は伽藍で、それでもどこかに誰かは残っているような気配がした。みんな来るからと部室で待っていても、誰も来る気配がなかった。私は煙草の吸殻が詰められたチューハイの空き缶のヤニ臭さに顔をしかめた。立派な画集の手垢のついていない項が、ちっともそれが手に取られていないことを示していた。私はそれが無性に寂しくて、手に取った。

それは世界の祭祀における衣装について扱ったものだった。異国の狂騒が耳たぶを掠めるような心地がした。

ちょうどメキシコの「死者の日」の項をめくったところで、修二が私のすぐ隣に迫っていることに気がついた。それでも私はすぐ間近にある男の吐息よりも、大きく印刷された目の潰れるような色彩に溢れた「死者の日」が私を惹きつけた。

なんの衒いもない、無垢な人たち。赴くままに使われる無限の色彩。情熱の音楽。渓谷の乾いた風、アルコールの弾ける音。舌を巻くように発音される異国語たち。深い陰影のできる彫りの深い顔立ちと、真っ黒な眉や髪。ゴム毬のように弾む褐色の肌。そして、それらを見つめる骸骨たち。

修二は私に焦れて、強引に肩を掴む。途端に南米の白昼夢は霧散した。



ふん、やたらに熱心なんだね。


え、ダメでしょうか?


ダメじゃないけど……君、本当に芸術なんかで食ってけると思う?


思わなかったら、わざわざ芸大なんて入りませんよ。


まあ、そうだけど……。あのさ、どんなに真面目にこんな画集研究したところでさ、どっかの会社のテキトーなデザインやって終わりなわけだよ。将来の夢とか、あるの?


ヨーロッパの美術館を、全部周ることです。



そこで修二は大笑いした。そして、少し哀れむように唇を緩めた。

「そんなに、甘くないよ」

修二は一方的に言って、私を無理やり剥いだ。何度か抵抗したけれど、こういうことには慣れっこなのか、修二はちっとも動じない。私は次第に諦めてさせるがままにしておいた。修二は満足そうに呻く。

私たちは埃にまみれながら、もつれ合っていた。


このことは誰にも言わなかった。修二の方も、忘れたように次会った時は平然としていた。私に世間の厳しさを説いたその唇で、今度はそこに万が一潜む甘さについて賭けようとしている。

「お前ら、ネタが被るのだけはなしな」

修二は冗談めかして言う。だが目の奥は笑ってない。笑いはさざ波のように波及して、サークル全体を一つにしていく。

それからは、2週間後に迫るハロウィンの仮装のネタ出しにみんなかかり切りだった。




私には選択肢があるはずだった。それはもちろんハロウィンに行かない、仮装をしない、という選択肢だ。

私はなんとなく、「死者の日」を思い出していた。まるで存在を誇示するように原色で塗り固められたものたち。それなのに、不快ではない。

やらなくてもいいものに、あえてとどまること。それを人はなんと言うだろうか。

私はひたすら、メキシコの「死者の日」の図版を求めた。過激に色付けをされた髑髏が始終まぶたに張り付いて取れなくなった。

夜中に目を閉じると、記憶の深い残像の中からそれらが取り出されて、踊り始めるのだ。私は密かにハロウィンの仮装を「死者の日」にすることに決めた。

修二たちが何に仮装をするかを知らないまま、ハロウィン当日になった。

私は下宿先の洗面台の前に立って、自分の顔をとっくりと眺めた。とりたてて、特徴のないモンゴロイドの顔つきだ。平坦で掘りの浅い、どこか幸薄そうな顔だ。長いこと見つめていると、それが眉が薄いことに起因していることに気がつく。ふと、弘美の顔を思い浮かべてみる。そうすると、彼女の顔は確かに綺麗な部類に入るのだろう。眉だって、一度彼女のすっぴんを見たことがあるけれど自然なものでも描いたようにほどよく濃かった。

私は手元に印刷した「死者の日」の仮装をするメキシコ人の図版を並べた。それから、いかにも肌に悪そうな原色たちを並べて塗っていった。



街へ出ると、誰もが私を二度見した。けれどそのすぐ後には興味なさそうに目を逸らす。私はそれに満足して駅に向かう。

あの驚きは、そのまま私の個性を示しているようで自尊心が慰められるのだ。私必要以上に背を伸ばして歩く。今日だけ私はメキシコ人になれるのだ。極東にいながらにして、メキシコになれるのだ。埋没してしまった個性と自我を、その分慰めてやるように私はしゃんと歩く。

だが渋谷に着いてからは、私のそうした感情の一切は途端に虚しいものになっていた。

そこには見渡す限りの仮装だらけで、個性の大渋滞だった。私はまるでゾンビのようにゆらゆらとしながらゆっくり進んでいく人たちを眺めて、倒れそうになった。

ふと目を転じると、すでに酔っているのか電柱の根元に蹲るピカチュウやら、ミニオンやらがいる。そこから覗くアルコールに浮腫んだ赤い頰が、腐りかけの果実のように見えてくる。私は全体からまるで発酵したかのように漂ってくる腐臭に顔を背けた。

何人かの陽気な人々は、気安く私の肩を掴んで断りもなく写真を撮っていく。私はされるがまま、流されるがままに渋谷を水草のように漂った。

色とりどりと、ばらばらの世界観がごった煮にされている。だが、それはどれもたった独りでは世界と触れ合えない臆病な魂たちの連なりだった。物音に振り返ると、邪魔そうに紙袋を折りたたんだ、ちゃちなナースの仮装をした女の子たちが3人ほどアパレルショップから出てくる。試着室で着替えをして、出てきたところだろうか。彼女たちは外の空気に当たった途端に奇声を発して大騒ぎする。

私はこうやって、手頃に浸れる狂騒と非日常のあまりの安っぽさに絶望した。先ほどの軽さが、そのままタールのように重く逆流して迫ってくる。だが、ここから戻ることもできないままに私は背中を押されるがまま渋谷を漂うことしかできない。

ここでは、自己主張をする人間しかいない。それなのに、みんな固有の顔にはなれないまま存在している。孤独に耐えられないような顔つきをしている。それを化粧で隠しながら、騒ぎの中に紛れ込ませながら、たった独りで目醒める夜明けの恐ろしさをやり過ごそうとしているように見えた。いつか、それを噛みしめなければならない日が必ず来るというのに、いやもうそれを経験しているはずなのに、みんなそれを知らないような顔をしている。その顔はみんな一様で、とても不気味だった。

自己主張の洪水の中で、みんながみんな、結局は同じところへと押し固められていくのだ。無個性の池へと、みんな淀んで向かっていく。私はぞっとして流れに逆らった。

そうすると、仮装行列にまともにぶつかる。あからさまな罵声、嬌声、遠慮のないボディタッチ、財布を探し当てようとする嫌な手つき……。私は息を止めて、その全てをやり過ごした。

ようやく人波の切れ目にたどり着くと、スマホを取り出した。グループラインには大量の通知が来ていた。その一つ一つを目で追って、「西洋美術史研究会」の屯する場所へと私はたどり着いた。



「お前、あの時は白けてた顔してた癖によ、一番気合入ってるじゃねえか」

安易に吸血鬼の仮装をした修二が苦笑いした。作品の公開などとぬかしていた割に、他のメンバーも呆気ないほど普通の仮装だった。中には、明らかにドンキで適当に仕入れてきただろう仮装もあって、私は途端に間に受けた自分が恥ずかしくなった。

「今年の優勝はあんたね」

ミニオンの仮装をした弘美が小馬鹿にしたように言う。私は髑髏の眼窩から、彼女を見た。

まだ自分の女を捨てきれない、中途半端な彼女をどこか哀れに感じた。それに私はちょっと笑ってしまった。

「なんなの」

弘美が唇を歪める。場の注目が自分に集まらずに、先ほどから不機嫌なのを必死に隠そうとしている。

私はその場から離れた。

修二はその他の会員たちとすでに人波の中に消えていた。弘美は一人だけ取り残されて、必死にスマホを見ている。だが、誰も弘美のことには気がついていないようだった。私は根元に誰かの吐瀉物のついた電柱の近くで、じっとしていた。弘美は私をも見失ったと思ったのか、ますます青白い顔をした。私の中で、悪意が夕立前の積乱雲のように育っていく。

弘美は私の目立つ髑髏を探しているようだった。私はビルとビルの合間に身を潜ませて蹲りながら、弘美の様子を観察した。私のスマホがひっきりなしに震える。鬱陶しさに開いてみると、弘美からの電話だった。私はそれをやり過ごして、たった独りの弘美を眺めた。そのうちに明らかに酔った男たちの集団が弘美の側を通り過ぎて、押し退けて行った。その弾みで弘美はスマホを取り落として見失ったようだった。私のスマホもようやく静かになる。

弘美は泣きそうな顔をして、佇んでいた。

私はそこまで見ていて、途端に自分のしていることの薄汚さにゾッとした。これでは修二たちとおんなじではないか。

ビルの隙間から出た時には、弘美はすでにそこに居なかった。私もまた、独りきりになってしまったのだ。このまま帰ろうかと踵を返しかけたとき、ぎょっとするものに出会った。

ジェームズ・アンソールの「仮面との自画像」を印刷した全身タイツで歩く遥子が、私を見つけて嬉しそうに駆け寄ってきたのだ。

「やだ、あたし負けちゃった!」

遥子は臆面もなく大声で言う。ただでさえ目立つ彼女は、さらに注目を集める。それも悪い意味で。

決してスタイルの良くない彼女は、密着したタイツでよりその不恰好さを誇示していた。思わず笑ってしまいたくなるほどに。

「なんですか、それ……」

「え?ジェームズ・アンソールの、知らない?」

「いや、知ってますけど……」

「だって、ハロウィンでしょう?みんな奇抜な仮装するんじゃないの?これ、自分で作ったのよ」

私はもう何も言えなかった。ちょうどぽこんと出た腹の辺りにジェームズ・アンソールその人の自画像が来ているあたりに、遥子のパーソナリティがよく出ていると思った。そして、全身を埋め尽くす仮面たち。アンソールの眼差しは、どこか冷めて諦めている。それがまたおかしくて、私は初めてここで柔らかな気持ちになれた。

「……この仮装してるのに、よく私って分かりましたね」

顔だけ丸くくり抜きされて覗く遥子に私は言う。

「だって、背丈とか体つきでなんとなくわかるじゃない。それにしてもこんなに人がいるなんて。でも、メキシコの『死者の日』って、こうして見ると、意外と没個性になっちゃうのね」」

私は黙る。遥子は悪意なく、単純に楽しんでいるようだった。手軽に作ることのできる奇抜さ、個性。他人の存在によって、簡単に埋没する自己主張。どれもこれもが、大量生産されて捨てられていくプラスチックのように虚しいものだと思った。

遥子の発散する個性と自己主張は変態じみたもので、とても近寄れなかった。

「私、もう帰ります。みんなともはぐれちゃったし」

「うーん、私もこのままだと職質されそうだし、帰るわ」

「え?」

「帰ろっか」

遥子はもう満足したのか、先に立って歩き出す。振り返ることもなく、小太りな体が視界を横切る。私はどうして遥子が嫌われるのか、よく分かるような気がした。

「あの……」

「え、なに?」

私は迷ってから言った。

「多分、弘美さんもみんなとはぐれちゃってます」

「そうなの?」

「はい」

私はどうしてこんなことを遥子に言ったのか分からない。弘美のことなんて、置いて帰ればいいのに、それはどうしてだかできなかった。

「スマホに電話してみる?」

「はい、とりあえず……」

そんなことをしたって、無駄なことは分かっていた。あの人混みの中で落とされたスマホなんて、今ごろばらばらか、悪意のある誰かに拾われていいように使われているに違いないのだ。

それでも私は弘美に電話をかけた。案の定、何度コールしても弘美は出なかった。

「スマホ落としちゃったのかな」

傍らで何も知らない遥子がお人好しに呟く。

「そうかも……ですね」

「どうしようねぇ」

私たちはどうしようか、うじうじとした。

「なんか、お腹空いたね」

遥子が唐突に切り出して、私たちは本能的に視線を漂わせる。そこにミスドが目に止まって、私たちはそのまま入って行った。

できるだけ目立たない奥の一角にトレイを持って座る。遥子はベタベタとしたドーナツを勢いよく食べていく。私はちまちまと千切って食べた。

「弘美帰れたかな……」

遥子はあまり興味なさそうに呟く。私は返事をすることもせず、俯いた。

スマホを机の下で開くと、グループラインにはみんな散り散りになってしまったのか、修二たちの膨大な通知が届いていた。見ているそばから会話が流れていく。弘美の反応は全くない。私は嫌になって、それを閉じた。

思わず頬杖をついて、塗料が掌についた。遥子は私なんてまるでいないようにドーナツを食べて、その手でスマホをいじる。

「ちょっと、トイレに行ってきます」

私はよろよろと立ち上がって、トイレに入った。狭いそこで、私は塗料を落とした。ついでに用を足そうと振り返ると、奥の個室が閉まっていた。手前の個室に入ろうとした時に扉が開いて、見覚えのある顔が現れた。

弘美だった。

疲れ切った顔と間近にぶつかって、私は狼狽えた。

「……やだ、あんたここに居たの?」

私はすぐに応えることができない。

「あの、遥子さんとたまたま会って……それで、もう帰ろうって……みんなとも会えないし、人も凄いし……」

「ふん、よく言うわ。私を置いてったくせに。ほんと、最低よ。スマホは無くすし」

やっぱり、と私は心中で呟く。

「警察には?」

「馬鹿、もうとっくに届けたわよ」

弘美はすでに服を着替えていた。まるで部屋着のそれは、彼女を少し幼く見せた。気取った女を脱ぎ捨てた彼女の方が、私は友達になれそうな気がした。

「……それで」

「はい?」

「あんた達は、これからどうするの?」

「ドーナツ食べて帰ります……」

「そう」

弘美は面白くなさそうに呟いた。私は気まずさから逃げるために、個室へ入った。息を詰めてこもっていると、手を洗う音が聞こえて出て行く気配がした。

私が個室から出る頃には弘美は消えて、どこにもいなかった。安心して席へ戻ると、すでに遥子も居なくなっていた。

呆気に取られていると、レシートが裏返しになっていて走り書きがされていた。


研究会のメンツがこの近くに来てるって、私は先に行ってます。


遥子は笑われにでも行くのだろうか。あの人たちが遥子を心から歓迎するわけなんてないのに。私はレシートをくしゃっと丸めると、ドーナツを残したまま返却口にトレイを返した。

それから、ただの無個性な一般人となってミスドを出た。

相変わらず渋谷は狂騒の中にあった。眼を凝らせば、遥子や弘美、修二たちも見つけられるような期待があった。それでも、私は強烈に何かに倦んでしまってそれをしなかった。

自己主張と個性の只中にいながら、無個性なものへと還元されてゆく。それは強烈な皮肉だった。道端に転がる空のチューハイ缶やガラスの破片、紙屑が夜風に舞っていく。夜が明ける頃には、粘つく吐瀉物や使用済みのコンドームすら転がっていそうだ。

その腐臭を想像して、胸がむかついた。

私は誰とも会わずに電車に乗って、家路についた。



下宿先に戻る頃には、すっかり静寂が胸の中に充満して、あれは夢だったのではないかと思えるほどだった。

ひりついた顔を洗い流すために熱いシャワーを浴びる。頭から熱湯を浴びると、なにか冷たいものが湯と一緒に融解させられていくようだ。蛹から成虫が孵化するように、縮こまっていた私も出てくるようだ。そこで初めて、私は軽い心地になる。

浴室から出てくると、スマホが震えていた。誰かからの電話でも、メールでもない。それは延々とグループラインのやり取りだった。私はトークを開いて、無心にやり取りを眺める。まるですぐ頭上を、他人がお喋りしているような居心地の悪さを感じた。

弘美も遥子も、結局みんなと落ち合えたようだった。私の存在だけがそこから綺麗にくり抜かれて、初めから居なかったようだった。この後は仮装したまま、朝までカラオケに行くらしい。

私は電気を消して、布団に潜り込んだ。ろくに乾かしていない髪は、明日の朝になれば酷いことになっているだろう。それでも構わずに私は寝返りを打った。諦めて、目を閉じる。

スマホはひっきりなしに震える。嫌なら通知を切ればいいのに、それをしない。

本当は行かなくてもいいのに、誰も望んでいないのにハロウィンに参加したあの心地と同じものがそうさせる。私は再び寝返りをうつ。まだ濡れたままの髪が柔らかく捩れて、早くもクセがつきそうだった。

私は手ぐしでそれを気休めに直す。そして最後にもう一度、トークを開いた。私の知っている人たちが、私の知らないところで盛り上がっている。だがそれにはなんの意味もない。ただ独りきりが怖いだけだ。独りでは騒げないから、みんなで寄り集まって騒ぐだけだ。

私は今度こそ、眠るための吐息を吐いた。

スマホは生物の細胞のように時折震える。


その振動を感じながら、私の夜は明けていった。


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