第15話 瀬戸の大神

 夜明け前、東の空が白みかけると、上りの日に先駆けて、明けの明星が輝き始めた。

「さあ、大神おおかみのいる大御島おおみしまに向かうぞ。日が昇る前に、日高見の儀式、高天原の日の出を受け入れよう。」


 五人は力を合わせて早瀬に向かったのだが、漕げども漕げども、船は進まない。東流れの潮が勢いを増して、船を押し流している。


「早瀬を避けよ。島影に隠れて、上陸だ。」


 山津見やまつみは声を荒げた。だが、曽良そら沙鳥さとりは、かいにぎる手から力が抜けるのを感じた。あの時と同じだ。


「海獣クジラだ。海がしびれている、大きなくじらが襲ってくるぞ。」


 曽良そらは大声を上げた。

「漕ぎ方やめぇい。」


 曽良そらの尋常ならぬ声に、山津見やまつみはわれに返った。だが、すでに時遅しであった。目の前にあの恐ろしく大きなくじらの姿が宙に舞った。海は大きく揺れ、大波が押し寄せた。五人はただ漂う小舟のへりにしがみ付くばかりであった。


 すると、次に大きく潮が引き、五人の船は、たちまちに潮のまにまに流された。寄せる波、引く波がぶつかって水しぶきが柱となって立ち昇った。潮の流れはますます早くなり、大きな渦潮を巻き始めた。小舟は、その渦の中に取り込まれる藻屑もくずとなった。


 山津見やまつみは気が付くと、目の前に鳴戸の門戸の神、久治良くじらがいた。あの海底の磐座である。しかも、久治良くじらの目は怒りに満ちていた。


山津見やまつみよ、ここが、立ち入りを禁じられている海であることは、よく知ってのことであろう。なぜ入った。この海は、大神のおひざ元。わしらくじら仲間が守る神聖な海である。許しなくして、入ることは死を意味している。そのことを知っての行い、決して許されることではない。曽良そら沙鳥さとり曾麻利そまりは二度目だな。もはや後はないと思い知れ。」


 久治良くじらはカンカンに怒っている。もはや五人衆は、まな板の鯉である。その時、大きな声が響いた。


「なれが山津見やまつみか、われは、瀬戸せと大神おおかみワタモセなり。よくぞ、この島に参ってくれた。」


 五人衆は、皆々、縮こまって動けない。 


「恐れることはない。そちらの日々の働きには感謝しておる。おかげで瀬戸の海、瀬戸の島々は豊かになった。雲野之比古次神くもののひこじのかみ、スイジニ神、ウイジニ神、櫛彦くしひこきみの働きによって、闇の海に光が射してきた。皆々には、心よりお礼を申し上げたい。」


 全身に響き渡る声に包まれて、五人の若者は身動きが取れない。だが、名指しで呼ばれた山津見やまつみは、口を開かずにはいられなかった。


「畏れ多くも、瀬戸せと大神おおかみに申し上げます。雲野之比古次神くもののひこじのかみ伴人ともびと山津見やまつみであります。われら、鳴戸なると門戸もんとかみ久治良くじらとの約束を守り、大神おおかみにお会いする日を待ち望んでいるのですが、あれから五年の歳月が過ぎました。毎日、今日か明日かと、大神にお会いできる日を待ち望んでまいりました。」


 山津見やまつみは恐る恐る、正直に申し上げた。


「昨日、大御島おおみしまの遥か西の海に入り日のあるを見まして、われは大きな驚きを受けました。それまでは大御島おみしまとは名ばかりにて、実は、ここは入り江の奥地だと信じておりました。ところがその入り江の向こうに海が見え、日が沈む光景が目に入りました。われは衝動しょうどうを抑えることもでずに、禁じられた場所とは知りつつも、つい入り日に向かって船を漕ぎだしました。大神のふところに飛び込んだ心地でありまた。よもや、大神にこうしてお会いできるとは、思いもよりませんでした。」


 山津見の誠意が伝わったのか、大神は山津見の言葉に丁寧にこたえた。

「門戸の神、久治良くじらから聞いているであろうが、久治良くじらもわれも、その元の姿はクジラである。海の中で生活するのが本来の姿である。」


 意外にも、大神おおかみの落ち着いた優しい声に、山津見やまつみの心は癒された。


「この早瀬の海は入り江が多く、朝夕の潮の流れは速いが、気候は凌ぎやすく宇迦うかもよく育つ。それだけに人々を脅かして独り占めにする輩は多く、外からの侵入者が増えるにしたがって、島々には争いが絶えなくなった。われらもあめつちに従う一族なれば、争いを競うことはない。早瀬の渡しは、われらが得意とするところであるから、人の姿を変えて海に入り、争いを治めるために、海の仲間を集めては瀬戸の早瀬を渡れぬようにしたのだ。今では、大島の東と西は行き来の出来ない閉ざされた海となった。」


 驚いたのは、山津見やまつみ曽良そらであった。互いに顔を見合わせて、うなづいた。


「ところが近頃、瀬戸の東の海に光射し、海も島も人住みて豊かになった。われ、日高見一族との出会を嬉しく思えども、なにせ、海に住みて久しく、クジラの姿長きによって、人の姿かたちとなることが出来ない。雲野之比古次神くもののひこじのかみにお礼を申し上げようにも、お会いすることも叶いませぬ。」


 なんと、瀬戸の大神は、くじらの姿のままなのであろうか。


 山津見やまつみは、改めて顔を上げて見渡したが、そこには門戸の神、久治良くじらがいるだけであった。曽良そら曾真利そまりもただ、目を丸くして、辺りを振り向くばかりであった。


「争いを治めるために、人を寄せ付けない海にされたと申されますか。」


「その通り。汝らの北の国でも、寒さがひどく寒気が抜けず、宇迦の育たぬ時には、多くの争いがあったであろう。宇迦うかなくしては、人の心は荒ぶれるばかりだ。瀬戸の海は、豊かな土地であるだけに、外から来た者たちは、あめつちの恵みを競って奪い合うようになった。」


 五人は、気づかれないように、互いを見やった。


「われら瀬戸の者たちは、汝らを新たな侵略者しんりゃくしゃとして嫌い、追い出そうとして早瀬という早瀬を渡れなくしたのである。だが、雲野之比古次神くもののひこじのかみは、その難しい早瀬を渡り、阿波あわさとの者たちを救った。」


 海底うみそこ磐座いわくらは、とてつもない静寂に包まれた。だが、それは大神の真心のようでもあり、五人衆は、冷たい水底の中で、そこはかとない温かみを感じるのであった。


「あの時、阿波あわさとでは、男衆が戦いに駆り出されていなくなり、姫神とその子らの命も尽きようとしていた。西の海では、人の姿をしたものが人を救うことはなかったので、阿波の里の者たちは驚き、汝たちの行いを疑った。われも疑った。だが、「あめつちの定め」を守り、争う姿なき汝らの行いを見て、阿波姫あわひめは、ようやく人としての信頼を取り戻したのだ。」


若者たちは、「あめつちを守る」という姿なき声が胸に響いた。


「われも、当初は、人の姿をして陸地をわが物とする汝らを信じなかったが、阿波の里での汝らの行いを思い、大島より東の海は、汝らに任せてみようと思ったのだ。阿波姫の気持ちが分からないわけではなかったのだが、次第に、島々に木々が育ち、あわひえあさが育ち、人々は豊になってきた。争うこともなく豊かになった人々の姿に喜びの笑顔が戻った。「あめつち」を信じ、宇迦うかを得て希望が見えてきた。高天原の神を信じても良いのではないかと思えるようになった。今は、われも人の姿に帰ってみたいと思うようになったぞ。」


 大神の話に聞き入っていた久治良くじらは、「大神が人の姿を望んでいる」と聞いて心が騒ぎ、まだ見たことのない大神の姿を思いやった。


「だが、西の海は違うぞ。西に海があることを知らせれば、必ずや、若衆が渡るに違いない。ここの瀬戸だけは闇の門として閉じ、この海域に近寄ることを禁じてきた。西の海には争いが絶えず、われらの久治良くじらも忙しい。山津見やまつみよ、分かってくれたか。汝らの勇気を讃え、われの思いを伝えた。淡路あわじ狭別島さわけのしまにもどり、このことを雲野之比古次神くもののひこじのかみに伝えてはくれまいか。」


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