第12話 クジラの神

 鳴戸の門戸の神、久治良くじらは、久々にくじらの姿に戻って海原うなはらに出た。紀伊水道きいすいどうを出ると、熊野灘くまのなだから向こうはまさに大海原、海また海の世界である。


 今は、これ以上先には進めないが、夏は、北の海に向かうくじらが多い。群れを組んで十頭くらいのくじらが意気揚々と潮を吹きだしては又、もぐる姿を見て、久治良くじら懐かしんでいる。


 久治良くじらは、かつて、外洋にいる仲間と年に一度は必ず、北の海に向かった。夏の北の海は凌ぎやすい。世界中の海という海から一つの場所を目ざして幾千ものくじらが集まってくる。


 そこは、くじらの島かと見違うほどに密集し寄り添う、特別の場所である。そして夏至げしの夜、真っ白な氷上を、すべるように回る太陽が真南に来た時、鯨たちは、天頂てんちょう極星きわぼちに向かって、一斉に鳴き声をあげる。


「くぉ~ん、くぉ~ん」

「くぉ~ん」

「くぉ~ん」


 くじらの鳴き声が、極星きわぼちに届けとばかりに響く。まるで、「太陽は、その高さ以上に極星きわぼちに近づいてはならぬ」とでも言いたそうに、聞こえる。


 海はとどろきき、天もふるえる。うす暗き天空に七色の光が舞い走る。極星きわぼちへの挨拶を済ませると、くじらはまた来た道をもどり、散り散りに別れていく。


 鳴戸なると久治良くじらには、一つの思いがあった。瀬戸せと大神おおかみは、極北の海に集まるくじらの神ではないかという思いである。


 むかし、瀬戸せと大島おおしまの西の海が真っ赤になった時のことが、遠い先祖から言い伝えられている。季節外れの赤い海月くらげ瀬戸せとうみおおいつくして漂った。


 早瀬はやせに流れる、おびただしい数の赤海月あかくらげは、秋の入日に映ってこの世の光景ではなかったという。島という島はただれた赤海月あかくらげに埋め尽くされ、人々は島に閉じ込められた。人々は、幾日も海に出られず困り果てていた。


 ところが、大島の東の海には、赤海月あかくらげは漂ってこなかったのである。どうしたことであろうと、一族を連れて、東の海域に入った先祖たちは、その光景を見て驚いた。


 一頭の真っ白な巨大鯨きょだいくじらが、白鯨はくげいを何十匹も引き連れて、懸命けんめいにその赤海月あかくらげを口の中に入れては、くい止めていたのである。


 鳴門なると久次良くじらは、全身が白く、この時の白鯨の子孫であるらしい。だから、あの巨大鯨きょだいくじらが、今も、瀬戸の海を守っていると信じている。


 極星きわぼち真下ました幾千いくせんものくじらの中から、最初に雄叫びをあげる真っ白な神鯨かみくじらがいるが、久治良は、それが瀬戸の大神の本当の姿だと思っている。そのよわいは、よろずを超えると言われているが、その姿を見たものは、誰もいない。


 大神から返事をもらえない鳴門の久治良は、焦りを感じていた。


「なんとしても、比古次神ひこじのかみ櫛彦くしひこきみを、大神の元へ案内せねばならぬ。」


 そういう時は、熊野の沖に出て、極北の祭りのことに思いを馳せるのであった。


 久治良くじらは、何度も御島にやってきては、比古次神ひこじのかみとの面会の許しを請うも、何の返事もない。


 久治良は、仕方なく阿波あわさとだけでなく、自分の手の届く島々にスイジニの神、ウイジニの神を案内し、多くの土を耕し水を引いて種を植えた。


 次第に人々が住める島が増えてくると、阿波の里だけでなく、針間はりま吉備きび淡海おおみ河内かわちなど様々の地から島々に移り住む人が出てきた。


 播磨の海は、行き交う船で賑わった。櫛彦くしひこ曽良そらの活躍の場も増え、多くの水主衆かこしゅうが、スイジニ、ウイジニと共に働くようになった。


 スイジニ、ウイジニのふたり神が結ばれて五年がたったが、それでも瀬戸の大神の返事はなかった。だが、比古次神ひこじのかみは待ち続けた。


 淡路あわじしま阿波あわさとは見違える様に豊かになり、宇迦うかが実り栄えた。やまいで命を亡くす赤子は少なくなり、姫たちとその子らは、地にあふれて賑やかになった。「わたつみの淡路の宮」を訪れる者の数は年々増え続け、その噂は、日高見の国、高天原にも届いた。


 ある時、綿津見わたつみ高天原かまがはらに昇って、天常立神めのとこちつのかみの前に出た。その昔、宇都志うつしのヒカネと呼ばれた若君への思いは変わることがなかったので、つい、瀬戸せと大神おおかみの事を尋ねた。


天之常立神あめのとこたちのかみには、ご壮健であらせられ、何よりでございます。われら、山をおり、川を下りて、海に出て以来、今では、淡路あわじ狭別島さわけのしまに宮を立て、阿波あわさとや多くの島々に宇迦之御魂うかのみたま弥栄いやさかを広めつつあります。」


「おお、風の便りに聞いておるぞ。さすがに、海に出ると水を得たうおであるな。」


「瀬戸の海は、恐ろしく速き狭別の早瀬が多く、われら海人でも容易に行き来することは出来ません。それでも、比古次神ひこじのかみ櫛彦くしひこきみ宇都姫うつひめ葦香あしかきみは、いずれも熱心に島々を巡っては、土を耕し、水を引き、種を植えられております。葦香あしかきみは、阿波姫あわひめとの契りを結ばれ、二人神となられました。」


葦香あしか阿波姫あわひめの事とは、比古次ひこじから報告があった。われも、諏訪の神も喜んでいるぞ。」


「しかるに、瀬戸には、五年の長きに渡って解決できない問題が残っております。」

「ほう、綿津見わたつみが問題とは、また、何事であろうな。」


「瀬戸の大神の事に御座います。大御島おおみしまに、大神おおかみありと聞いておりますが、未だに、お目見えも叶わず、島の向こうにあると言われる海に渡ることも叶いません。何故に、このように長々とした時を重ねなければならないのでありましょうか。どうしたら、瀬戸の大神の真意をつかむことが出来ましょうか。」


 綿津見わたつみは、年々に満る気が溢れるのを感じさせるのであるが、それだけに弱点もあった。


綿津見わたつみよ、時が気になると見えるな。そちはよわいを重ねるごとに、充実じゅうじつの気を放っているが、ちと、気短きみじかになってはいないか。」


 確かに、綿津見わたつみの顔には、海の男のあらくれしわが刻み込まれていたが、年老いた姿ではなかった。


「ありがたきお言葉に御座います。あの浅間千年祭の年、きみは十六、われは四十を過ぎておりました。高天原たかまがはらを下りまして、淡路あわじ狭別島さわけのしまにたどり着きましたのが六十五。それから八年の時が立ちましたので、すでに七十三にあい成ります。」


 綿津見わたつみ航海族こうかいぞくらしく、月日のこよみが頭の中に入っているのであろう。その正確な返事に天之常立神あめのとこたちのかみも驚いた。


「七十を越えたにしては、元気じゃのう。麻績おみさとまでは、海の道、山の道、どちらで参られた。」


「われは、海人にございます。浅間の里にいた頃は、おかがったうおのように、干上がっておりましたが、海に出れば、わが意を得たりと背筋せすじ》ものびのびとしております。海の道が肌に合っております。」


「やはり、綿津見わたつみは、海の男よな。」


淡路あわじの島に新しき宮を築いた時には、わが一族の山津見やまつみが紀ノ川の山道を拓きました。山津見やまつみは、紀伊山中の木を切り出して、河口まで運ぶ筏師いかだしの血筋にございますが、今では海に出て、淡路あわじしまにあめつちの宮柱みやはしらを運んでくれました。」


「そうかそうか、アツミ衆はますます盛んじゃのう。こちらでは石津見いしつみが、そちに劣らず元気でな、われも頼りにしておるぞ。」


「ありがたきお言葉に御座います。」


比古次ひこじの一行を送り出してからというもの、われと石津見いしつみは、大山平おやまたいらにあった姫神の里を取り戻すべく日々に明け暮れてきた。雨が降ると犀川さいかわがせき止められ、大山平おおやまたいらは水浸しとなる。この繰り返しであった。」


「そのことは、われも瀬戸の海に入っても、なお気に掛かっておりました。」


「だがな、遂に、犀川さいかわの谷を切り崩し水の道を通すことができた。あの佐久の里を流れる千曲川と合流することが出来たのだ。大山平おおやまたいら淡海あわうみは、次第に水位が下がり、元あった大地が現れた。姫神の里が姿を見せた。」


「ヒカネのきみの心根で御座いましょう。志が、地中深くに根を張ってございます。」


「だが、これまでに三十年を越す歳月がかかったぞ。この地に蛇神かかかみ、姫神達が戻るのは、これからじゃ。ようやく、自分たちの故郷を取り戻すところまできた。石津見いしつみが開いた大地を、皆はアツミの里と呼んでおる。これもアツミ一族のお蔭じゃ。高天原もようやく形を成してきたぞ。」


「ありがたきお言葉にございます。わがアツミの一族が天之常立神と共に、このような大業を成すことが出来ましたことは、大いなる喜びで御座います。われもよわいを重ねたとはいえ、淡路あわじ狭別島さわけのしまでのことは、まだ道半ばにございます。」


「時が来れば、道も見えてこよう。」


「確かにそのようで御座います。瀬戸の大神のことは、お恥ずかしい限り。時を焦らずに、これまでと同じように、比古次神ひこじのかみまことの心を捧げて付いて参りましょう。いささか、時を急ぎすぎましたかな。」


「それがよかろう。雲野之比古次くもののひこじは、わが息子とは言え、われとは違って気の長い奴だ。長い目で支えてはくれまいか。」



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