第8話 真心とまごころ

 

 櫛彦くしひこは、比古次神ひこじのかみを案内して、青和幣あおにぎて御幣みぬさけた約束の地を訪れた。


 潮風が吹き抜ける墓標の丘は、霊気に包まれたまま、以前と変わることがなかった。風雨に耐えた石積みと木の柱は、辛うじて当時の姿を残していた。


 失われた歳月に、櫛彦くしひこはわが思いの不甲斐ふがいなさを恥じた。忘れていたわけではなかったが、あの早瀬の渦潮の悪夢あくむ記憶きおくを遠ざけていたのだ。


 比古次神ひこじのかみは、宇都姫うつひめを伴ってその木柱の前に立ち、祝詞をあげた。


鳴戸なると門戸もんとかみおそれみおそれみ申す。われ日向ひむかうの国、日高見ひたかみを出でてより、川を下り、麻績おみうみ熊野くまのうみを渡りて、淡路之狭別あわじのさわけの島に着きしもの、宇都志雲野之比古次うつしくもののひこじなり。」


 比古次神ひこじのかみは、鳴門の海神に語り掛けた。海風が吹き上げ丘の上を駆け抜けると、ぼろぼろの御幣みぬさがたなびいた。


「わが弟、櫛彦くしひこ、この島にがりて御幣みぬさを捧げ、三年の歳月過ぎしも、約束のこと及ばず。今日、ここに一族が揃いてまいる。わが一族の宇麻志宇都姫うましのうつひめ宇迦之御魂うかのみたまの血筋なりて、あわひえを持ちて門戸もんとかみに捧げ奉る。ここに鳴戸なると門戸もんとかみの怒り鎮まり賜いて、われらを受け入れ賜わらんことを願う。」


 続いて、宇都姫うつひめが前に出て、祝之詞はふりのことばを捧げた。


「われ宇迦之御魂うかのみたまを守りし血筋の宇都姫うつひめなりて、鳴戸なると門戸もんとかみに申す。わが祖母そぼは、北の日高の国、宇麻志蛇姫うましかかひめシロタエなり。」


 海から吹き上げる潮風がさらに強くなった。まるで、シロタエ神を待ち望んでいたかのように舞った。


「シロタエ神、わが身を大御神おおみかみに捧げて宇迦之御魂うかのみたまとなれり。これによりて宇迦之御魂うかのみたまあるところ、宇迦たべものさわりなし。姫神ひめかみ栄え、子も多く、子孫のえることはなし。宇迦之御魂うかのみたまは、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまなり。」


 宇都姫うつひめ、恭しく大地に額づき、両手で八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを捧げた。


鳴戸なると門戸もんとかみの許しこそあれば、われ八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを持ちて、この地に宇迦うかの種をまく。」


 宇都姫うつひめ祝詞のりとが終わると、ちかけた立木からは、新しき芽が膨らみ、立木に懸けられた青和幣あおにぎては、みるみる新しき御幣みぬさに変じた。


 すると、なにやら御幣みぬさの影より、聞き覚えのある声がした。

「ありがたきかな。われ、鳴戸なると門戸もんとかみなり。ゆえありて、姿、現わせられず、お許しをたまう。今日、約束を守りてこの地にお出まし頂いた宇都志雲野之比古次神うつしくもののひこじのかみと皆々をまことこころを持ちてお迎えいたします。うやうやしくも言魂ことだま宇迦之御魂うかのみたのを捧げ頂きありがたきかな。」


 姿なき声に、皆々、それぞれに周りをうかがいて怪しむも、櫛彦くしひこ曽良そらは、互いに顔を見合わせた。


「この地は、阿波あわの姫神の地にて、海の漁、山の猟、盛んなり。よしかわは、海幸うみさち山幸やまさちを運ぶ命の川なり。しかるに、近頃この地の海は荒れ、山に洪水多く、はやり病に犯されて失う命は多し。良しの川も悪(あし)の川と呼ばれる始末なり。」


 風が強く吹き付ける度に、潮風は、声の主を包み込み、そのまま丘を駆け抜けていく。


「この地は、美しき鳴戸なると早瀬はやせを眺める丘なりて、病をわずらいのち亡くした姫神たちの子らは皆、この丘にほうむられている。いま宇都姫うつひめが捧げし宇迦之御魂うかのみたまは、この子らの魂が招いたに違いありません。ありがたきかな。」


 まさに聞いたことのある門戸もんとかみの声である。だが、声の響きは弱く、姿も見えない。「ゆえあり」とは言え、姿なき門戸もんとかみに不信の心を抱いた櫛彦くしひこは、若者らしく問い正した。


「われ、門戸もんとかみに三年の歳月を待たせたことを、大いにくやみみ、反省いたしております。いつわり心のなきことをお伝え申すため、今日は、われらがかしら宇都志雲野之比古次神うつしくもののひこじのかみをお連れし、命宣みことのりを奉げました。しかるに門戸もんとかみは「ゆえあり」と申されて姿見えず。どのような理由わけがあるのかお聞かせ頂きたいものです。」


「お尋ねのこと、いかにも、もっともなれど、われの姿、現すことかなわず。われ鳴戸なると門戸もんとかみ、クジラの身にて丘の上にあがれず。」


 クジラと聞いて、皆々、身体を震わして、互いに身を細めあった。


「この地の姫神ひめかみは、阿波姫あわひめなり。体を患いていつ命つきるやも知れず。今、この丘に姫神、参るべきなれど代りの者も来れず。ただ、なみだれるばかりでございます。」


ますます、怪しき言の葉。櫛彦くしひこは、さらに問いかけた。


「ならば、われ、宇都姫うつひめと共に阿波姫あわひめのもとに参り、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまをもちて、姫神のさわりを鎮めましょう。案内を賜りたくお願い申す。」


櫛彦くしひこの言葉に、門戸もんとかみも従った。


櫛彦くしひこきみ真心まことごころ、ありがたきかな。ならば、阿波姫あわひめさとにお連れ致しましょう。ただし、あの里に参るにはクジラのひれが必要であります。以前に差し上げたひれは、これにお持ちでありましょうか。」


「もちろんです。鳴戸なると早瀬はやせを渡る時の守り神として、肌身はだみから外さずに持ってまいりました。」


 櫛彦くしひこは、右手を胸にかざして、ここに有りますという仕草をした。


「それは、わが身の胸ヒレであります。」


 驚いた櫛彦は、咄嗟に右手を胸にあて、ヒレに触れた。


「三年前、あなた方がこの地にお見えになった時のことです。阿波あわさと流行病はやりやまいに犯され、多くの姫神やその子たちが、次々に倒れて命を亡くしました。阿波姫あわひめは、その都度、亡骸なきがらとなった姫神ひめかみや子どもたちをこの丘に葬り、とむらったのであります。」


 風が止むと、門戸もんとかみの声は、大地に眠るたくさんの魂の声が一つになったように響いた。


「ところが、とうとう阿波姫あわひめまでもが、やまいに伏すことなりました。里の皆々はこの丘に集まり、海の神に祈りました。われは、鳴戸なると門戸もんとの神。流行病やりやまいを退治することが出来ません。そこで、瀬戸せと大神おおかみのところにお願いに参り、われの最も大切な右の胸ヒレを切り離して、大神に捧げてお願い申しました。」


櫛彦くしひこは、ヒレに手を当てたまま、門戸もんとかみの話に聞き入った。


「お蔭で流行病はやりやまいは収まりましたが、阿波姫あわひめの病はそのままでありました。大神にお願いいたしましたところ、「門戸の神のヒレを持つものがこの地を訪れた時、阿波姫あわひめの病は治るであろう。」と申されました。われは、「どういうことであろううか。」と悩みましたが、いずれ分かることであろうと、大神に祈りを捧げ、その日の来たることを首を長くして待っておりました。そのようなときに櫛彦くしひこきみ葦香あしかきみがこの地を訪れ、御幣みぬさを捧げて再びの訪問を誓って頂いたのです。」


 櫛彦くしひこは、ヒレを握ったが、言葉は出なかった。一同、沈黙のまま、時が過ぎた。門戸もんとかみの次の言葉を待っていたのであろうか。


葦香あしかきみには、この丘で亡骸なきがらとなった魂が頼りにいたしました。すると、きみは力をつけて再び訪れることを約束頂きました。それが三年前のことでございます。われは、「大神の申されたことは、まさにこのことであったのか。」とばかりに、大神の許しを得て、わが胸ヒレに息を吹きかけ、その形を小さくすると、櫛彦くしひこ様の身体にくくり付けて送り出したのでござます。」


櫛彦くしひこは、いたたまれずに胸の内から、ひれを取り出した。


「やはり、このひれは、・・・」


「それ以来、われは鳴戸なると門戸もんとの御役目を務めながら、胸ヒレの持ち主の訪れを今か今かと、待っておりました。しかし、阿波姫あわひめの病はえる予兆きざしも見せず、命つきる日も今日か明日かと思しき時に、果たして、このよううに皆様方をお迎えしたという次第でございます。」


 櫛彦くしひこの身体が突然、くずれ落ちた。


「ああ、何としたことでありましょうぞ。鳴戸なるとかみの心も知らず、先ほどよりずかしき言の葉の数々、立居振たちいふる舞い、まことに持ってお許し下さい。何とずかしきことでありましょうか。おびの言葉もありません。」


 櫛彦くしひこひざを曲げ、その場にうずくまり、頭を下げて許しを乞うた。


 櫛彦くしひこだけではなかった。その場にいた葦香あしかも大きな心の痛みにうなだれた。丘にいる全ての者が膝をついて、大地に額づいた。新しき地、瀬戸せとかみに祈り、阿波姫あわひめ快癒かいゆを祈った。


櫛彦くしひこきみに申し上げます。きみがもつクジラのヒレをわれにかざして、三度みたび振ってください。」


 クジラの神がそう申し上げると、櫛彦くしひこは言われたままに、三度みたび、左右に振った。


「ありがたきかな。われ門戸もんとかみ鳴門之久治良なるとのくじらにございます。」


 いきなり現れたのは、白髪しろひげの海の主であった。

「海にいるときは、クジラにてありますが、陸にあがるとこうして二つの足を頂いております。久しぶりにわが足で大地を踏みつけることが出来ました。ありがたいことであります。あたままゆもひげも真っ白でありますが、よわい三十路みそじに満たぬクジラでございます。皆様方を、阿波姫あわひめさとにお連れ申しげましょう。」


 鳴門之久治良なるとのくじらの足取りは、海の神とは思えないほど軽やかであった。先ほどの重く暗い空気は、たちまちに晴れわたり、青空の下、まさに大神おおかみの意を受けたりとの思いに溢れていた。


 阿波姫あわひめがいるという岩窟いわくつの前には、すでに大勢の人々が出迎えて、一行を待っていた。案内の鳴門之久治良なるとのくじら、出迎えの先頭に阿波姫あわひめの姿をみた。長年の病に伏していた阿波姫あわひめがまるで別人のように、両手を天に揚げて、一行を出迎えている。感謝の心に満ち溢れていた。

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