第7話 クジラの鰭(ひれ)

 祭の日から二年がたち、三年過ぎたが、門戸もんとかみの使者は来なかった。櫛彦くしひこは気分のすぐれない日が続いた。


「なぜ、使者は来ないのか。確かに約束を結んだはずなのに。このままでは、比古次神ひこじのかみは、この島より一歩も先に進めないではないか。」


 櫛彦くしひこは、浜辺の岩場に登るたびに、打ち寄せる波しぶきをかぶりながら、対岸の丘を眺めていた。


門戸もんとかみ瀬戸せとうみの番人。もしかして、われらのようなよそ者を中に入れないために、あのような偽りの約束をしたのではなかろうか。それに違いない。」


 櫛彦くしひこは十八歳になった。この三年の間に、背丈も伸びてたくましい青年の体つきになった。だが心の内は、来る日も来る日も、同じ思いに悩まされ続けた。


 日毎、次第にあるがままの姿が見えなくなり、疑い深くなっていった。曽良そらは心配して、櫛彦くしひこに言った。


櫛彦くしひこきみには、近頃、お顔がすぐれません。何か、御悩み事でもおありでしょうか。われは、あの日、きみが目覚められた日より、命を共にすると心に誓っております。何か、お役に立てることがあれば、何なりと仰せ頂きますように。」


「そうであったな。曽良そらよ、心配することはない。それにしても、早いものである。あれから三年の歳月が過ぎたな。われも、あの門戸もんとかみとの約束のことを考えると、つい、心がすさんで行く。あれは、われらをこの地にとどめ置くためのいつわりの約束ではなかったのか。だまされたのではないかと思うと、いてもたってもいられなくなるのだ。」


「やはり、そうでありましたか。われも近頃は、門戸の神のことばかりが気になっております。同行の弟たちにも確かめたのですが、「追って使いを出す」との門戸もんとかみの言葉は皆、心にとどめております。」


「だが曽良そらよ、あの日、海に出なかったならば、このような約束もなかった。比古次神ひこじのかみも、素直にこの約束を守っておられる。曽良そらにはありがたく感謝しているぞ。只々、使者が来ないことにいら立ちを覚え、その思いを抑えることが出来ない自分を腹立たしく思っているだけなのだ。」


 櫛彦くしひこは、久しぶりに思いのたけを口に出した。こわばった体の力が抜けたのか、気が楽になった。


「そうだ、あの日の誓いの品を確かめてみよう。あれは、われの体にくくり付けられていたというが、比古次神こじのかみに奏上した折に、祭壇に祀られたままであろう。あのちかいのしなには何か思いのしるしがめられているかもしれない。」


 二人は、人気のいない時を待って、祭壇に祀られている「ちかいのしな」を、そっと下ろして手にした。


「これは、クジラのひれであります。われが麻績おみさとにいった時、同じものを見たことがあります。麻績おみのオババも「これは、海の神の化身であるぞ。」といって大切にされておりました。」


「ならば、門戸の神の約束、いつわりなきまことであるな。」


「間違いないでしょう。しかも、われがオババの里で見たのは、黒い色をしておりましたが、これは混じりけがなく、真っ白であります。まさに海神の化身に相応しいクジラのひれであります。」


「そうかそうか、曽良そらよ、よく言ってくれた。われは、むねにつかえたものが、やっと取り除かれたようだ。約束の誓いはまことなり。ならば、何故にこのように長い間、使者はやって来ないのであろうか。曽良そらには、何か心当たりはないか。」


「われは、あの日の海のことが言葉に出てこないのであります。あの海のことが喉まで出かかっても、すぐに戻ってしまいます。だが、今、クジラのひれに触って、ひとつ心残りのことが思い出されました。」


「何か、思い出したか。」


「あの日、たしか向こう岸の丘を離れる折に、櫛彦くしひこきみ葦香あしかきみと共に「近々、訪れよう。」と、かの地の神々と約束し、木の枝を立てて、青和幣あおにぎて御幣みぬさをくくりつけられました。」


「そうであったな、われも思い出してきたぞ。」


「その時、葦香あしかきみさわりが起こり、しばし、心を鎮められておりました。葦香あしかきみ青和幣あおにぎて御幣みぬさに自らの心を込めて、「子供たちの魂と共に過ごした」と申されておりました。」


「そうだ。なぜに、そのような大切なことを忘れていたのであろう。曽良そらも、ひれに触れて、思い出したのか。」


「いかにも、ひれが、あの時の思いを呼び返したようです。われらは、意識を取り戻してからというもの、今か今かと門戸もんと使者ししゃを待ち続けておりました。だが、約束したのは、われらの方であり、待っていたのは、むしろ向こう岸の神々ではないでしょうか。」


 曽良の言葉に櫛彦くしひこは、はっとして思い出したことがあった。


「そうだ、そうであった。われは、かの地の神々に近々の訪れを誓った。あれから三年、彼の地の神々は、われらの訪れを待ち続けていたのであろう。どうしてそのことに気が付かなかったのか 。皆々には、あい済まぬことをしてしまった。早速、このことを比古次神ひこじのかみに相談してみよう。」


 若き櫛彦くしひこは、恥ずかしい思いで一杯であった。自らの間違いを、三年もの間、気づかずにやり過ごしてしまった。しかもそれを曽良そらから言われて気が付いた。後悔こうかいと自分を責める思いに、またもや打ちひしがれてしまった。このことを葦香あしかに話すと、


「あの時は、多くの命をわが身に受けたのであるが、一人では耐え切れなかった。われは、もっと強くなって再び、訪れようとの思いを幣に込めた。今がその時かもしれません。」


「そうであったか。比古次神ひこじのかみには、何と言って詫びたらよいのであろう。言葉もないが、いつまでもこのような気持ちでいることも出来ない。そうだ、いっそのこと、比古次神ひこじのかみに同行願い、向こう岸に渡ってみたらどうだろう。曽良よ、もう一度、あの向こう岸の丘に行ってみようと思うが、案内を務めてくれるよな。」


「ありがたきかな、いかにも、われの役目にございます。」


 二人は、早速、比古次神こじのかみにこのことを伝えると、「それは良い考えである」と喜び、出航の準備に入った。


 出航といっても、眼と鼻の先への船出であるが、三年前の丸太の小舟ではなく、筏船いかだふねには三十人が乗りこんだ。雨のあい間の晴れた日を選んで、朝日と共に出発した。


 曽良そらには、一抹の不安があった。あの大きな渦潮うずしおである。岬の向こうの早瀬まではかなりの距離があるとはいえ、潮の流れは速い。


 やみうみと言われるゆえは、人を寄せ付けない、この早瀬の海にある。昨夜は月の沈む刻を確認した後に潮の流れを読んだ。祖父、綿津見わたつみにも相談し、日の出の出航となった。


 だが、この早瀬の速さと怖さは曽良そらにしか分からない。三十人の命を預かり、この瀬戸を渡らねばならない。


櫛彦くしひこきみに申し上げます。前回は、島伝いに岬に近い海路を通ったため、潮に流されて、イルカに案内してもらいました。今回は、遠回りではありますが、一旦、南に向かって迂回うかいし、潮の流れに乗って一気に向こう岸に進路を取ることにいたします。」


「おう、曽良そらよ、今日は存分にそちの力を出してくれ。無事に早瀬を渡ることを祈るぞ。」


櫛彦くしひこ曽良そらも、今朝の顔は久しぶりに晴れやかであった。


「しゅっぱぁつ。」


 櫛彦くしひこの掛け声は、天に届けとばかりすみやかにえわたった。比古次神こしじのかみも同行することになり、櫛彦くしひこは改めて、向こう岸の新しい大地に希望を託すことが出来た。


 曽良そらは、「今度こそは、皆を無事に届けなければならない。」との思いがあった。日の出と共に、早瀬はやせしおの流れ、対岸の山影の移り行く姿をしっかりと脳裏に焼き付けながら、最善の注意を払って水主かこに声をかけた。


 漕ぎ手は、右八人、左八人の十六人であった。曽良そらは、太鼓の音に合わせて、掛け声を挙げた。


かいをかまぇい。さぁ行くぞ~。そおれ、ひぃ、ふぅ、みぃ。そおれ、ひぃ、ふぅ、みぃ。そおれ、ひぃ、ふぅ、みぃ。」


 次第に櫂の動きは揃い、三十人を乗せた筏船いかだふねは静かに緩やかに動き出した。


「さぁ行くぞ~、こぎてはそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。もいちど、そろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。みっつそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。」


漕ぎ手十六人のかいなに力が入った。


「こぎてはそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。もいちど、そろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。みっつそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。」


十六のかいがそろって一つになると、波を切るごとに船は進んだ。しばらくは、漕ぎ手の掛け声だけが、あめつちに響いた。


「えいっさ、えいっさ、えいっさ。」


上手かみて、休め。」

曽良そらの声に、半数の漕ぎ手がかいを挙げて休んだ。


しばらく進むと、今度は、

下手しもて、休め。」

漕ぎ手が変わった。こうして、比古治神ひこじのかみ一行は、大きく南に舵を切って対岸を目指した。


「全員、かいをあげぇ。」


 曽良そらの声で、十六本のかいは、垂直に立った。しばらく潮の流れのままに任せるとの命令であった。船はゆっくりと右に回転した。曽良そらは、早瀬の潮目を見逃さなかった。船は曽良が見つめる潮に乗ると、早瀬を斜めに横切った。


「渡り切った。よくやったな、曽良そら。」


 櫛彦くしひこ曽良そらがこの短い航海に命を懸けていたことをよく分かっていた。あの海底うみそこ磐座いわくらでの尋問、あの恐ろしき記憶が消えたわけではない。


 曽良そらにとって訪れたくない海であったはず。だが、櫛彦くしひこが生死の境を彷徨さまよっている時、自らの命を差し出した曽良そらに、もはや迷いはなかった。曽良そらの顔は晴れやかであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る