第4話 鳴門の早瀬

 島に揚がった時は、梅雨つゆ時で雨風が強く、海に出るのは難しかった。その梅雨つゆも明けるころ、雨の合間に日が射したので、櫛彦くしひこは、くだんの五人組を連れて船を出した。


「やっぱり、海はいいよな。波もなく、静かな海は心が和む。曽良そらよ、今日は、お前の思いの通りに、この早瀬はやせを渡ってみないか。」


 曽良そら綿津見わたつみの孫であり、櫛彦くしひこに航海の技を指南する師であった。雲間くもまの太陽と、雲の速さを見ると櫛彦くしひこに言った。


「今日は、あの向こう岸の陸地に上陸してみましょう。日が頭上に昇る前には上陸できるでしよう。」


 曽良そらも久々の青天井あおてんじょうに、気持ちは晴れていた。葦香あしか曾真利そまり沙鳥さとりも皆、同じ気持ちであった。


「エイサ、ホイサ。エイサ、ホイサ。」


 いつもの五人組は、久々にかいにぎったことで力がこもり、たちまちに額に汗がにじんだ。年下の曽真利そまり沙鳥さとりは少年とは思えないほどの力を発揮した。


 曽良そらは、丸木船のともにいてかいを漕いでいた。船上の全員を見渡すことのできる位置にあり、真っ直ぐ進むよう漕ぎ手に指示を与えていた。


 先頭の舳先へさきには、櫛彦くしひこが前面に構えて微動だにしなかった。曽良そらは、船が右に右にと曲がるので、年下の曾真利そまり葦香あしかに大きく声をかけた。


「左方より潮が強くなった、これに取られてはならないぞ、曾真利そまり、もっと強く漕げ。」


「待て、曽良そらよ、あれが見えるか。海の珍獣、くじらではないか。何匹も群れをなして泳いでおるぞ」


 舳先へさきにいた櫛彦くしひこは、十頭ほどの小さなくじらの子が海面に何度も飛び出している姿を見て驚き楽しんだ。


「あれはくじらではありません。イルカといってくじらの仲間でありますが、われわれを歓迎してくれているのでしょう。戯れが好きな珍獣ちんじゅうであります。」


「おお、あれがイルカであるか。」


「それよりも、ここは潮の流れが強い。流れに逆らってあのイルカを追ってみたいところではありますが、イルカが嫌っているのは、あの右手先に見える渦潮でしょう。どんどん大きくなっている。イルカに見習って、ここは、潮の流れから離れましょう。」


しばらく漕ぐと渦潮から遠ざかり、再び、静かな海原に戻った。だが、対岸との間には、かなり速い潮が流れている。


「あの潮の流れを越えないと、向こう岸にはたどり着けまい。曽良そらよ、どうする。」


「イルカは、渦潮うずしおを避けて、多分、左手の先に見える小さな島影に向ったのでしょう。われ等もイルカの後に続きましょう。葦香あしかよ、イルカの心が読めるであろう。何といっている。」


 葦香あしかは鳥や鹿、猪などの動物と心を通じることが出来るのだ。


「「われについてくるように。案内いたしましょう」と言っておる。」


 イルカが向かった先には、小さな島があったが、島影に入ると潮の流れは静かにおさまった。


「さすがに海の生き物、潮の道をよく知っているな。葦香あしかもイルカと友達になれたであろう。さあ、いよいよ向こう岸は目の前だ。早く降りたいものだ。おや、あれは案内をしたイルカではないのか。早く上がれと誘っているぞ。」


 櫛彦くしひこ一行は、遠回りではあったが、淡路あわじの島から鳴戸なるとの早瀬を渡って阿波あわの島に上陸したのであった。日高見ひたかみ族が阿波あわくにに足を踏み込んだ第一歩であった。


 だが、船を降りて丘の上に昇った一行が見たものは、海から見た景色とは全く違う、荒涼こうりょうとした墓標ぼひょうの丘であった。背筋に冷気が走り、寒々とした思いに襲われたのは、櫛彦くしひこだけではなかった。


 櫛彦は、「聞いた話しとは違う。恐ろしき楽園とはこのことか。」と心に思ったが、冷静に振る舞った。


「日も上がった。次に来る時は、もっと大勢の水主衆をつれてこよう。この地は、良いところじゃ。この地の神々に、近々、再び訪れることを約束しよう。木の柱を立て、あめつちのしるしとして、麻績おみさとで頂いた青和幣あおにぎて御幣ごへいをくくりつけておこう。」


 比古次神ひこじのかみの志を思うと、櫛彦くしひことしては精いっぱいの言葉であった。さらに櫛彦くしひこは、浜辺の大きな石を集め、流木りゅうぼくを立てて柱とした。


 すると、どうしたことであろう、葦香あしかの顔がいきなり真っ青になり、息も絶え絶えにその場に倒れてしまった。慌てた櫛彦くしひこは、瓢箪ひょうたんを取り出し葦香あしかの口に水を含ませると、持っていたあさの気付け薬を飲ませた。


葦香あしかよ、気はたしかか。どうした。」


「ここは、神聖しんせいの場所。多くの子供たちの気を受けました。しばらくは、こうしてこの地のたましいに触れていましょう。」


 櫛彦くしひこ曽良そら葦香あしかの状態に心を痛めたが、半時もすると葦香あしかの顔に赤みが差してきた。


「心配を掛けました、もう大丈夫です。この地は大いなる地、恵みの地であります。改めて参ることにいたしましょう。あめつちの木柱きはしら青和幣あおにぎて御幣みぬさに、われの心を込めさせて頂きます。」


 葦香あしかが祈りを捧げると、少年五人衆は、その地を離れることにした。


「まだ日は高い。帰りしなには、早瀬の潮をよく目に焼き付けてまいろう。曽良そらよ、あの大きな渦潮うずしおに取り込まれないよう、くれぐれもうみわざみがいておくれ。」


 先ほどの葦香あしかの様子が気にはなったが、それでも、五人組は、意気揚々と帰路に向かった。


 海峡の真ん中に来た頃であった。それまで雲一つない晴れわたった静かな海は、にわかに景色が変わり始めた。みるみる雲が厚くなり、風が吹き込んで波が立った。


「雨が降って来るぞ。曽良そら、急がねばなるまい。」


「船は、いささか西に流されております。」


 曽良そらは、島のみさきを見つめて流される速度を図った。浜からは、まだ、かなりの距離である。しかも、みさきの周辺は、渦潮うずしおの海である。巻き込まれては、大変なことなにる。曽良そらの声が上がった。


「さあ、いくぞぉ。元気を出せぇ。かいを合わせていくぞぉ。こぎてはそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。もいちどそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。みっつそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。」


 残りの四人も続いて声を出し、かいなに力が入った。次第に、船はみさきから離れ、島の浜辺の方に近づいた。


「こぎてはそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。もいちどそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。みっつそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。」


「こぎてはそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。もいちどそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。みっつそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。」


 五人組は、かけ声とともに息が合い、熱気を帯びてきた。


 その時である。海が震え、水面みなもが盛り上がった。船は左右に大きく揺れ、漕ぎ手の指先がしびれた。


「なんだ」


しかも、曾真利そまりが、かいを持ったまま海に吸い込まれるように放り出された。


「漕ぎ方やめぇい」


 曽良そらの大きな声に、一同は船を止めて曾真利そまりを探した。波が大きく揺れて曾真利そまりの姿は波間に見え隠れしていた。


曾真利そまり曾真利そまり、聞こえるか。この浮きうきづなを掴むのだ。」


 縄の先に木の棒が巻き付けてあり、曽良そらはそれを波間の曾真利そまり目がけて投げつけた。曾真利そまりも懸命に命綱いのちづな手繰たぐり寄せ、しがみついた。


 再び、海が震えた。今度は大波が船をおそった。船はひっくり返るほどに揺れたが、元に戻った。


「みな、無事か。曾真利よ、大丈夫か。」


櫛彦くしひこは、全員の無事を確認し、曽良そら曾真利そまりを救うように願った。だが、曽良そら曾真利そまりが持つ命綱いのちづなともにくくり付けた。


曾真利そまりよ、しばらくはこのまま命綱のちづなにつかまってついて来い。つなを身体に巻き付けよ。引き上げる間がない。大きな海獣かいじゅうがわれらの船を襲っている。われらは急ぎかいを取り、この場をしのぐ。しばし我慢せよ。櫛彦くしひこの君には、曾真利そまりに代わってかいいで頂く。この場を過ごせなければ、われら皆の命とてもない。しかも、このままでは、あの渦潮うずしおに流されてしまう。曾真利そまり、しばしの辛抱じゃ」


 曾真利そまりは、うなずくよりしかなかったが、それでも命綱をしっかりと手繰って、身体に巻き付けた。その時、見上げた空の雲間に、極星きわぼちがキラリと光ったのを見た。


 曽良そらは、落ち着いて状況を判断していたのだが、現実はその先を進んでいた。


「漕ぎてはそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。もいちど、そろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。みっつそろいて、ひぃ、ふぅ、みぃ。」


 曽良そら懸命けんめいの掛け声もむなしく、また、海が大きく揺れた。


 なんと、目の前に、巨大なクジラの姿が現われ、海面から飛び上がった。ざんぶりと、大波をかぶり、その後には、強力な尾ヒレの飛沫しぶきが襲ってきた。


 海に潜ったクジラは、再び、姿を現し、大きく潮を吹いた。小船は、大海に浮いた木の葉の様にゆれ、潮に流されると、岬の先に押しやられてしまった。


 しかも、そこには、大クジラをも飲み込む巨大な渦潮うずしおが待っていた。もはや、櫛彦くしひこ曽良そらも成す術はなく、潮の流れに運命を任せるしかなかった。






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