第2話 瀬戸の海へ

「この年の初秋、諏訪のトメ神に第二子、宇都姫うつひめが生まれた。トメ神は、高天原に昇り来たりて、「この子はあめつちの神の子である。自分と宇都姫の命を大蛇神おおかかかみに差し出すによって、多くの失われた魂を弔って頂きたい。」と願い出た。われは、トメ神の願いを受け入れ、高天原のあめつちの神々の前にて共に祈りを捧げた。」


 雲野比古次もののひこじは、その時のヒカネ神と同じ姿にて、両腕を伸ばし、てのひらを天に差し、地に伏せた。まさに天之常立神あめのとこたちのかみが祈りを捧げているようである。


 岩窟の中は、薄暗い松明たいまつに照らされていたが、突然、煌々とした明かりに包まれた。


 「おおっ、ヒカネの君が淡路の島に現れなさった。」


 光に照らされた雲野之比古次神くもののひこじのかみは、天常立神あめのとこたちのかみと重なり、綿津見わたつみの目には、忘れもしない十年前の「絶望ぜつぼうの祈り」が再現されているのである。


「恐れ多くも、あめつちの神々に申す。天之御中主神あめのみなかたしのかみ浅間火柱之大蛇神あさまほはしらのおおかみとの約束である「千年ちとせの結び」は成就されました。われは、新しきあめつち千年の国を築くべく、諏訪すわのトメ神と共に、日々に祈りを捧げております。」


 雲野之比古次くもののひこじは、自然にふるまっていたが、その姿は、まるで天常立神あめのとこたちのかみであり、周りの皆々の前には、当時の光景がよみがえっているではないか。


「いまや、大山平おおやまたいら復興ふっこうは、その大切な第一歩であります。ようやくその事業をなし終えんとするこの時に、再び、あめつちの怒りありて、山も川も崩れ落ち、多くの命を失いてふりだしに戻りました。」


 天常立神あめのとこたちのかみは、はらはらと涙を流し、言葉を詰まらしてしまった。


「ふる里の皆々は、心折こころおれ、明日を夢見る気持ちもなえております。ここに、諏訪すわのトメ神、わが子、宇都姫うつひめと共に自らの命を差し出して祈りを捧げております。トメ神の願いを受け入れて頂きますよう真心を込め、あめつちの神々に申し上げます。」


 すると、その時、諏訪火柱之大蛇神すわのほはしらのおおかかかみは、声となって応えた。


天常立神あめのとこたちのかみヒカネの祈りは尤もである。トメ神の願いもよくわかる。トメ神、幼くして諏訪千年神すわせんねんしんとなるにより、その務めはいまだわれと共にあり。トメ神の意思は、われ火柱之大蛇ほはしらのおおかかと一体である。」


風が舞って、諏訪谷すわたにを駆け抜けていった。


「ヒカネ神はあめの神、トメ神はつちの神。あめつちあい和(なご)みて力なすまでは、しばしの時がかかる。急ぐではない。あめつちの気和きなごむまで、大山平おおやまたいらの災いが治まることはない。あめつちの神々を信じ、その都度に復興の務めを怠らずに果たせ。時がくれば地固まり、天に通じる。」


 風が舞った。駆け抜けた風が、再び、谷を駆け昇ってくると、山々の峰を越えて天空にふきあげた。


「トメ神の第二子、宇都姫うつひめ宇麻志うましの古き先祖の魂を受け継ぐ神なれば、長じて西の海に向うべし。あめつちの気、なごみたれば、その時、天常立神あめのとこたちのかみヒカネと国常立神くにのとこたちのかみトメの願いは叶うであろう。」


「ありがたきかな。この惨状さんじょうに戸惑いて、わが心はくじけるところでありました。ヒカネが魂もまた、諏訪之大蛇神すわのおおかかかみにお預け致します。改めて、この難関なんかんひるむことなく立ち向かうことをお約束申し上げます。」


 それから十年が過ぎた。まさに時、来たりて大山平おおやまたいらは鎮まった。里の神々と人々、いよいよ故郷に戻り、復興を成すことが出来た。


 天常立神あめのとこたちのかみヒカネと諏訪之蛇神すわのかかかみトメの二人神、ここに、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ諏訪火柱之大蛇神すわのほはしらのおおかかかみに祈り、大山平おおやまたいらの復興祭を執り行った。


 天常立神あめのとこたちのかみヒカネ、祈りの中に、諏訪火柱之大蛇神すわのほはしらおおかかかみ現れて宣り給うた。


「ヒカネ神とトメ神の願いはここに成就する。トメ神と宇都姫うつひめの心はあめつちに通じた。約束した通りこれより日高見の国は、あめつち相和あいなごくにとなろう。あめ族よ、つち族よ、互いに争うことなくむつみの国となせ。」


 その声は、紛うことなきヒカネが天空を翔けたトカシラノオロチそのものであった。声が響くごとに、大地が震え、金色の気が昇った。


大山平おやまたいらの復興こそは、あめつちの国のはじめである。阿積あつみ一族の働き甚大じんだいなれば、以後、この地を「あつみ野」と呼ぶべし。これよりあめ族、つち族、力を合わせて先祖の道を開くべし。」


 その声にアツミ一族は、大地に額づいて涙した。再び、黄金の気が立ち昇り、しばし、沈黙ちんもくの時が過ぎた。さらに、黄金の声は響いた。


瀬戸せとうみ宇麻志うましの古き先祖あるによりて宇都姫うつひめ、これを訪ねよ。アツミのかしら石津見いしつみはこれからもヒカネ神を支えよ。また綿津見わたつみは、海に戻りて雲野之比古次もののひこじを支え、瀬戸の海を開くべし。」


トカシラノオロチは、そう言い終えると姿も声も消えてしまった。


 翌日、天常立神あめのとこたちのかみヒカネは、わが子、雲野之比古次もののひこじを招きてこのことを申された。


「わが子、雲野之比古次くもののひこじに告げる。なれ、高天原を下り、皆々を伴いて知られざる瀬戸の海を求め、新たなるあめつちを開くべし。あめの子、櫛彦くしひこと、つちの子、宇都姫うつひめを伴となすべし。われは、この地に留まり、常しえの高天原を築くなり。」


 天常立神あめのとこちとのかみの声が消えると、元の暗がりの岩窟に戻った。


 雲野之比古次もののひこじは、天常立神めのとこたちのかみヒカネの命詔みことのりを噛みしめながら、改めて、いま、岩窟の中にいる自分を奮い起こした。


 綿津見わたつみもまた、われに返った。顔面にしわを寄せながら、誇らしげにこの時の思いを申し上げた。


「われにも、ひとこと言わせて頂きましょう。」


しわの数だけ、話がありそうな顔をして、綿津見わたつみは前に出た。


「われ、ヒカネの君が浅間の山々に導かれし時より、常にかたわらに仕えてまいりましたが、なにせ、われらは海の民、浅間は山々の世界にて、十分な貢献もできず、悔しき思いにておりました。いま、新しき海を求めての旅路は、わが綿津見わたつみの海の術が必ずや力となるでしょう。雲野之比古次神くもののひこじのかみの期待に応えるべく、存分の働きをお見せ申し上げましょうぞ。」


 綿津見わたつみは海人のかしらであり、この航海を無事に乗り切ったことが何よりも満足であった。


西にしかたは、全くの知られざる国、やみくにと言われておりますが、われら海の民にしてみれば、希望の国であります。」


 みなみなは、「希望の国」という言葉の響きに心をうばわれた。


「われら、アツミ一族は、東の日高見の海を航海する海人でありますが、西の海のことは、ほとんど知られてはおりません。かつて北の海を治めていたタマツミ族によりますと、高志の海の西のはずれに、隠岐おきしまという離れ島に黒曜石こくようせきがあり、隠岐おきの海人たちは潮に乗って姫川ひめがわ科野しなのの川に黒曜石こくようせきを運んでいたということであります。隠岐おきしまは、われら神津島こうづしまのアツミと同じ海人であります。」


 綿津見の観察力と分析力は随一であり、その言葉には説得力があった。その綿津見が恐ろしいことを言った。


「また、われらのアツミ衆が熊野くまのさとから南の海に出る荒くれ者達から聞いた話によると、南の海は、巨大きょだい海獣かいじゅうんでいて、訪れる者たちに襲い掛かるというのです。瀬戸の海は、潮の流れが速く、訪れた者達は皆、それら海の怪物に飲み込まれて命を失うというのです。」


 皆は、耳を立てて、綿津見わたつみの話しを食い入るように聞いた。綿津見わたつみは、瀬戸の海に向かう心構えのつもりであったのだが。


「そんなに、怖がらなきてもよい。その怪物かいぶつを追い払うクジラという怪獣かいじゅうがいるというのだ。われは海人であるが、まだ、クジラとやらを見たこととがない。奴らは、クジラのことをやみうみを守る番人だと言っておりますぞ。」


 上陸したばかりの皆々に、少しで、言い過ぎたと思ったのか、綿津見わたつみは、頭をきながら、照れ笑いした。


「いやいや、おどかすたにめに言ったのではない。みなみな、疲れているときに、いささか、薬が効きすぎたようですな。」


つくろってはみたものの、誰も綿津見わたつみの顔をまともに見てはいない。


「心配することはないぞな。海とはそのようなものだと言っているのです。むしろこの地の島々は楽園の如くに気候も良く、ウカの育ちも良く、海幸、山幸に恵まれているのです。宇都志うつしの神、雲野之比古次くもののひこじの神なら、必ずやこの恐ろしき楽園の海に入ることが出来るでありましょう。是非にも、われをお供にしていただき、西の方、闇の海を開かせて頂きたいものです。」


 雲野之比古次神くもののひこじのかみは、眼をつぶって、じっと綿津見わたつみの話を聞いていたが、すくっと立ち上がると、両眼を見開いて、未来の拓け行く世界を見つめた。


「皆の者、今の綿津見わたつみが話、各々の心に届いたであろう。綿津見わたつみ高天原たかまがはら大功労者だいこうろうしゃである。本来ならば、高天原に残り天常立神めのとこたちのかみと命を共にすべきところである。」


 比古次は、綿津見わたつみを心の底から頼りにしていた。


「しかしながら、綿津見わたつみは、われ等と共に、新しい道を開くことに覚悟を示してくれた。今の綿津見わたつみが言の葉、皆々もきもに命じておけ。これよりわれらは、瀬戸の海に向かい先祖の道を訪ねようぞ。」


 耳を澄まし聞き入っていた岩窟の百人の衆は、雲野之比古次もののひこじの言葉と心がひとつに通った。


「おうっ」と誰かが応えようとすると、百人の声が続き、岩窟の中に響きこだました。外は、黒雲が立ち込め、いかづちと共に雨がけたたましく降り始めたが、岩窟いわくつの熱気は、それを押し返すほどであった。


 しばらくの間、この岩窟は、比古次ひこじ百人衆の住処すみかとなった。

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