竜宮の姫神

秋津廣行(あきつひろゆき)

第1章 淡路之狭別(あわじのさわけ)の海

(1)雲野之比古次(くもののひこじ)

第1話 淡路之狭別(あわじのさわけ)の岩窟

「雲が厚くなってきた。波も高くなってきたぞ。雨が降り出す前に島にあがろう。津島つしまよ、旗を挙げて、櫛彦くしひこ宇都姫うつひめに知らせよ。」


 五隻の筏船いかだふねは、大海原おおわたはらを波に揺られながらも、百人近くの人と神々を乗せて、漂っていた。


「見えるかぁ~。雲野船くものふねに旗が上がったぞぉ~」


 櫛彦くしひこの透き通る声は、天に響き、波を走った。


比古次ひこじの神から指令だ。向かいの島に上陸せよ。水主頭かこがしらに伝える、雲野船くものふねの後に続き、浜辺を目ざせ。宇都姫うつひめの船と動きを合わせよ。」


 先頭を走るのは、真っ赤な船旗を翻す雲野船くものふね、少し遅れて、左に宇都姫うつひめの船、右に櫛彦くしひこの船がある。先頭の船には、船団の頭である雲野之比古次くもののひこじが指揮を取っている。


 両脇の二艘の船から太鼓の音が、ドン、ドン、ドンと鳴り響き、五隻の船の推進力となった。波間を漂う小さな筏船いかだふねであったが、乗り組みの皆々は、水しぶきを浴びながらも、心は希望にえていた。太鼓の音と共に水主かここころかいが一つになり、目の前の大きな島に向かった。


 副官である津島之綿津見つしまのわたつみは、比古次神の傍にいる。かつては、神津島こうづしま綿津見わたつみと呼ばれて、航海人三巨頭の一人であった。神に仕えるものが神を名乗るのはおこがましいと、いつの頃からか津島之綿津見しまづまわたつみと名乗るようになっていた。


 アツミ一族では族長、石津見いしつみに次ぐ二番頭にばんがしらであった。すでに六十歳を越えていたが、しっかりとした体躯からだ気概きがいは、まだ若いものには負けてはいなかった。力強いかいなかじを取り、重みのある声で若衆のこころつかんでいた。


綿わたよ、下船の準備をせよ。」


と、その声で、綿津見わたつみは、息子の綿わたに命令した。


 浅間の戦いでは、最後まで高志こしのタマツミ屋形に残り、十二人衆の一人ツチホシと共に、奴奈川蛇神ぬなかわのかかかみヌバタマ神を守ったアツミ衆の一人である。


 高天原を出立する時、綿わたは、末子の伊留可いるか天常立神あめのとこたちのかみヒカネに仕えさせ、自分と長子の曽良そら雲野之比古次くもののひこじ伴人ともびととなって未知の海に旅立った。綿わた四十歳、曽良そら十八歳である。


「すでに、小舟と船綱ふなづなの準備は出来ております。われら五人が先にまいりましょう。」


 そう答えたのは、曽良そらであった。側でうなずいていたのは、父の綿わたであった。


「そうか、ならば上陸じゃ、わしも行くぞ。」


 綿わたも、曽良そらの意気込みに、背中を押された。


 綿津見わたつみは久々の航海を楽しんでいたが、孫の力強い言葉にまゆを細めた。上陸のことは全て、綿わた親子に任せた。


 綿わた曽良そらを含めた五人の水主衆は、今にも降り出さんばかりの空を見上げた。五人は、ぶるぶると身体を震わして、雲野船もののふねから離れ、人気のない浜辺に向かった。


 浅瀬に来ると、若い曽良そらいきよいよく海に飛び込んだ。


「ドボ~ン」


 波しぶきが跳ね返り、小船は大きく揺れた。


 すると、ほかの三人の若衆も曽良そらに続いて飛び込んだので、一人残された綿わたは、もんどり打って倒れてしまった。綿わたの悔しそうな顔を見ながら、若衆は腰までつかって小船を引いた。


 綿わたは上陸すると、しばらくあたりを見回り、安全を確認すると沖合の綿津見わたつみに合図を送った。


 まずは、雲野船くものふねが浜辺に引き寄せられた。船留ふなどめの岩を探し、そこにしな船綱ふなづなを巻き付けて固定した。


 ほかの船からも、次々と小船が出され、上陸の準備がなされると、それぞれに、船綱ふなづなが引き寄せられた。五隻の筏船いかだふねは浜辺に揚げられて、百人の乗組員は無事に上陸した。


 先に上陸した曽良そらと若衆が駆け寄ってくると、一同を岩場の影に案内した。百人が雨露あめつゆしのげる岩窟いわくつを探していたのである。


 全員が岩場の洞窟に身を寄せると、今度は、綿都見わたつみが忙しく立ち回った。綿津見一族の大活躍である。


水主衆かこしゅうは、こちらの岩陰いわかげを下ろし、すぐに火を起こせ。比古次神ひこじのかみには、まずこちらにてお休みあれ。櫛彦くしひこきみとその衆はそちらの岩陰いわかげ宇都姫うつひめとその衆は、ほら、そこだ、その大きな岩陰に身を下ろして頂こう。」


 綿津見わたつみ水主衆かこしゅうに、次々と指示を出した。綿津見わたつみ差配さはいによって、一同はようやく腰を下ろし、一息つくことが出来た。


綿津見わたつみよ、ご苦労であった。そちのお蔭で、皆は、狼狽うろたえることもなく、速やかに新しい島に上陸することが出来たぞ。それ、外では、いよいよ風が強くなり雨が降り出した。間に合ってよかったな。」


雲野之比古次くもののひこじは、綿津見わたつみに礼を述べると、改めて皆の前に出て、今回の航海こうかいころざしを述べた。


「さて皆の衆よ、無事に揃っておられるか。」


 雲野之比古次くもののひこじは、雨露あめつゆをしのげるばかりの岩窟いわくつに立ち上がり、一人ひとりの顔を見つめた。


「みなみな、ともどもに元気で上陸できて何よりである。いよいよ、瀬戸せとうみにやってきたぞ。ここは、これまで日高見の者は、誰も足を踏み入れることのない未知の海である。」


 雲野之比古次は、上陸したばかりであったが、この緊張した空気の中でこそ、言わねばならぬことがあった。


「浮島も多く、今日、見えた島は、明日には姿を消す島も多いといわれている。島と島の間は狭く、潮の流れは険しい。瀬戸之狭別海せとのさわけのうみと言われるやみ世界せかいだ。高天原を立つときに、あめのとこたちの神から直々の命宣みことのりを頂いたので、疲れておろうが、皆にも伝えておこう。」


 雲野之比古次くもののひこじは、そう言うなり、再び、まわりを見渡すと、天常立神あめのとこたちのかみ命宣みことのりのままに話し始めた。


「われ、高天原かまがはらを開きしより、すでに二十五年の歳月を迎える。ウノとの戦いを終えて以来、火高ほだかの山々に多くの祠を立ててまつった。その悲願が叶い、日高の神である、あめのみなかぬしの神、たかみむすびの神、かみむすびの神をこの地に迎え、新たに日高見の国を開くことが出きた。」


 海風が岩窟の中を走り、「ひゅ~、ひゅ~、ひゅ~」とこだましながら通り抜けていった。まるで、あめつち三神がこの岩窟のなかに、降りてこられたかのようであった。


 比古次はその声を聞きながら、心は、天之常立神ヒカネのままであった。


「われは日高の国を離れ、新しき諏訪すわの地にようやく宇都志うつしの根を張ることが出来た。また、宇麻志うまし蛇族かかぞくもまた、浅間の山神と一つになりて、諏訪のトメ神をよく支えてくれた。ここに、いよいよ「あめとつち」の神々、なごみて、高天原は安らかとなった。」


比古次ひこじは、まるで天之常立之神あめのとこたちのかみが乗り移ったように、天に拝し、地に伏して祈った。


大山平おおやまだいらの復興のことを忘れるものはないであろう。われは千年祭が終わるとすぐに、犀川さいがわの修復に取り掛かった。工事は難航し十六年が経った頃である。犀川さいがわの流れがもとに戻り、大山平の水も引いて、ようやく水底が見え始めた。いよいよ、この地に元の山里が蘇えると誰しもがそう思った。四方八方に散らばっていた皆々は、心弾んでふるさとに戻れることを喜び、帰郷の準備を始めた。」


比古次ひこじは、皆々の顔を見回したが、その仕草は、天常立神あめのとこたちのかみそのものであった。


「ところがその年の夏、あめつちが狂った。一度、降り始めた雨は容赦ようしゃなく、やむことがなかった。激しき豪雨ごうう地震じしんに見舞われた。四方の山々からは、濁流が溢れ、沢は削られ、岩と倒木によって、再び犀川さいがわは閉ざされてしまった。かつての悪夢に襲われた。たちまち大山平おおやまだいらに水が溜まりはじめ、湖にもどるのに時間はかからなかった。この時、帰郷の準備に忙しく、喜びにあふれていた多くの人々は、虚しく命を失われ、新しく築いた堤や堰、水路の事業もすべては流されてしまった。」


 大山平おおやまだいらの復旧は、天常立神あめのとこたちのかみヒカネの命を掛けた事業であったが、再び、ヒカネ神は、絶望の中で振り出しに戻されてしまった。


 ヒカネ神は、若き諏訪の大蛇神おおかかかみトメ神と共に、日々あめつちの神々に祈りを捧げつつの事業であった。だが、その夏、激しく降り続く雨は止むこともなく、人々の希望を湖に閉じ込めて、水かさは増すばかりであった。

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