プレゼントは君の狂愛

風間風磨

聖なる夜に

 色づいた木々の葉はいつの間にか風に吹かれて散り、木の枝はまとうものがなく寂しげに木枯らしでなびいている。 

 それとは対照的に街はクリスマスの装飾でカラフルに彩られ、一大イベントを控えた多くの人々で活気が増している。

 駅の前に立つ大きなクリスマスツリーもこの間からイルミネーションが点灯し始め、この街全体が今か今かと疼いているような感じがする。

 僕もそんなクリスマスを楽しみにする空気の中にいれることが嬉しい。

 去年までは一人で迎えていたクリスマスであったが、今年はそうではない。

 隣で歩く僕の大切な人がいる。

 名前は美咲。僕と同じ文学部で、テニスサークルに所属している。

 つい先日、幸運にも僕は美咲と結ばれることになった。

 一人暮らしの僕がまさかクリスマスを女性と迎えることになるとは思ってもいなかったし、それにこうやって彼女と一緒になんて———。

 繋いだ手から美咲のぬくもりを感じる。今はそれだけでとても幸せだ。


「———それでさ美咲、明日どこか行きたいところある?」


 先程までしていた取り留めのない会話を遮り、僕は本題に入った。

 クリスマスを一緒に過ごすことは前々から決めてはいたが、どこで過ごすかはまだ相談していなかった。

 それなのでいくつかのプランを頭に思い描きつつ美咲に聞いてみることにしたのだ。

 付き合っているとはいえ、改まるとやはり緊張してしまう。


「クリスマスイブだし、どこか楽しいところに連れて行ってくれたら嬉しいな。ずっと二人で、一緒にね」

 

 美咲ははにかみながら少しうつむく。マフラーから半分ほど出た耳が薄くピンク色に染まっている。

 美咲も僕と同じで明日を楽しみにしてくれているようだ。

 

「それなら遊園地でも行く?あ、あと夜は僕が前から行きたいと思っていたお店があるからそこでご飯にしよう」

「うん。そうだね」


 こうして僕らのクリスマスデートの予定はすんなりと決まった。

 こんなに嬉しい気持ちになったのは初めてサンタからプレゼントをもらった時以来だろうか。

 年を経るにつれて、現実を知るにつれてクリスマスというイベントを心から楽しみにすることなんて無くなっていた。

 だが久々に抱いた感情は、以前よりも濃密なものであり、僕の白地に近い生活に様々な色を描き出してくれるような気がした。


 そのあとは引き続きたわいない会話をしながら歩いた。しばらくすると商店街を抜け、駅前にたどり着いていた。

 ここまでが僕と美咲が一緒の大学の帰り道。僕はここから歩いて帰るが彼女は電車に乗って帰る。

 

「じゃあまた明日」

「うん。じゃあね純一くん」


 繋がれた小さな手が離れ、僕に向けて振られる。

 そして、美咲はそのまま駅舎に向かって歩いて行った。

 その隣ではクリスマスツリーが僕たちを祝ってくれているかのように、爛爛と輝いていた。



 楽しい時間はあっという間に過ぎた。

 遊園地はありがちな選択であったし、クリスマスイブということもあり想像していた以上に人がいてやや苦労したが、それでも美咲とのデートはとても楽しく幸せな時間となった。

 だが今日のプランはまだ終わりでない。

 どうしても行ってみたかったレストランがあるからだ。

 

「もう暗くなっちゃったけど、もうすぐで着くから。もっと近いところにすればよかったかな」

「大丈夫だよ。楽しみにしてるからね」


 僕でさえ少し疲れているのだから美咲はもっと疲れているはずだが、一切態度に表さず僕についてきてくれている。

 ようやく見えてきたのは以前一度見た時と変わらない古風なレストランの姿だった。


「ここが僕が行ってみたかったところ。名前は書いてある通りRoseローズってところ。今日は特別な日だし、貸切にしてもらったんだ」

「え!貸切って、お金とか大丈夫なの」

「うん。今まで貯めてきたバイト代あるし、美咲のためならね」

「本当に嬉しい。純一くんありがとう」


 喜んでもらえると、無理算段してまで貸切にした甲斐があったものだ。

 それに、これが美咲との大切な思い出になるというものなら安いものである。

 二人で入り口に向かうと中から一人の初老で白髪のウエイターが僕らを出迎えにきた。


「ご予約の安田純一様でよろしいでしょうか」

「はい」

「ようこそ、Roseにお越し頂き誠に有難う御座います。この度は従業員一同、精一杯おもてなしをさせて頂きます。ではこちらへ」


 初老のウエイターはそう言うと僕らを奥へと招き入れた。

 内装は今まで僕が見たことのない様なアンティークな雰囲気で施されており、傍には年代物とみられるワインや模型が飾られていた。

 そして店の名前にあった通り、たくさんの薔薇もあった。

 一般的な赤色からピンク、オレンジ、そのほかにもたくさんの色が飾られていて、店の中には薔薇のほのかな香りが漂っていた。

 

「純一くん、ここすごいね」

「そうだね。僕も正直こんなに雰囲気のある店だとは思っていなかったよ」


 僕と同じく美咲も驚いているようで、小声で話してはいるが声が少し上ずっている。


「こちらで御座います」


 案内されて席に着くと、ウエイターはすぐに食前酒をどうするか聞いてきた。

 だが、この手の店に来るのは初めてであったのでとりあえずメニューを見てから考えさせてもらうことにした。

 受け取ったメニューにはそれほど多くの料理名は載っていないが、どれも僕が聞いたことのないようなものばかりだった。


「うぅん……、何を頼めばいいのやら」

「そうだね……、わたしもこういうところに来たの初めてだし」


 見れば見るほど何を頼めばいいのかわからなくなってくる。

 美咲も困惑している様子だ。

 そんな僕らの姿を見て気を遣ってくれたのか、先ほどの初老のウエイターがこちらへ来た。


「もしお悩みでしたら、今日限定のメニューがございますが、そちらはどうでしょうか」


限定のメニュー。ここに書かれていないものなのだろうか。

どうせ決まらないのならそれを頼んでみるのもありかもしれない。


「そうなんですか———じゃあそれでお願いします。美咲は?」

「じゃあわたしもそれで」

「かしこまりました」


 そう言うとウエイターはにこやかに、慇懃いんぎんに礼をした。

 その姿は「執事」という言葉で形容するのがふさわしいものであった。僕は執事を雇うブルジョアの気持ちを味わうとともに、ウエイターの洗練された姿に感心しないわけにはいかなかった。

 ここまでされると逆に堅苦しい気もするが……。

 それでも漸くこうしてこの店にたどり着くことができたのだから、満足のほかなかった。

 今思うと濃密な一日であった。あとはここで美味しい料理を堪能するだけだ。

 椅子の背にもたれかかると、今日感じていた疲労感が一気に押し寄せてきた。

 体が弛緩し、尿意を感じる。

 少し席をはずすとだけ美咲に伝え僕は席を立った。

 

 ウエイターに席まで案内されたから気づかなかったが、この店はどうも入り組んでいるらしい。

 トイレがどこにあるか案内らしきものはなく、仕方ないが手当り次第店の中を探してみることにした。

 だがその必要はなかった。トイレではないがすぐに厨房が見つかった。店の人がいるはずだから聞いてみることにしよう。

 中に入ろうとした時、中から二人の男と思われる話し声が聞こえてきた。


「……今日の客はあのメニュー頼んだらしいぞ」

「えぇ、そうなのか……だってあれは……」

「でもそれは噂だろ。わからないじゃないか……」

「でも………………」

「そうだな、これは………………」

「ああ……、…………だけが知っている……」


 何を話しているのだろう。所々くぐもっていてよくきこえない。

 メニューについての話だが、何か問題でもあるのだろうか。

 とても気になるが、このまま僕が入ったらやめてしまうだろう。

 しかし、この扉を少し開ければバレずに聞けるかもしれない。

 ゆっくりと開ければ気づかれないだろし、少しくらいなら盗み聞きしても良いだろう。

 ゆっくりと慎重に扉を開ける。少し空いた隙間を覗き込んでみると、くぐもっていた声がはっきりと聞こえてくると同時に、大量のが僕の目に飛び込んできた。

「えっ……」と思わず小さな声が漏れる。

あれは———。


「お客さん、何をなされているのですか」


 突然後ろから、低い声が僕に向かってかけられた。

 その声は、あの初老のウエイターのものだった。

 予想していなかった事態に動揺し、僕の心臓は早鐘を打つ。


「え———えっと……。トイレがどこにあるか分からなくてそれで……」

「そうでしたか。こちらは厨房ですよ。私が案内しますのでついてきていて下さい」

「はい———」


 トイレに着く頃には感じていた尿意はすっかり消え去り、僕の心は妙な気持ちに支配されていた。

 悪い事は何もしていないし、見たことも聞いたことも一切問題のないものであるのは確かである。

 だが、あのウエイターが暗に僕をなじるような態度をとったと感じるのは気のせいであろうか。

 

 用を足して席に戻ると、そこにはグラスに入った黒赤色のワインと少し色のついた透明なワインが用意されていた。


「あれ、ワインなんか頼んだっけ?」

「これもコースの一部なんだって。純一くんがいない間にソムリエの人が持ってきてくれたよ。前菜ももうすぐくるって」

「そうなんだ、ワインもついてくるんだ」


 僕はついこの間二十歳になったばかりだ。

 ビールはたまに飲むが、ワインは今回が初めてである。

 白は魚料理に、赤は肉料理に合うという常識的な知識しか知らないので、正直香りであったり舌触りはまだ理解できないかもしれない。

 ほぼ透明なワインが注がれたグラスを手に取ると、いつかテレビで見た時のようにグラスを見様見真似でくるくると回してみた。

 そしてそれを少量口に含んでみると、なめらかな感触が僕の舌の上で踊りそのあとすぐに上品な薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。


「すごく美味しいよこのワイン。しかも薔薇の香りがする」

「本当に?ワインまで薔薇をテーマにしたものを扱っているなんて、こだわりがすごいね。それより純一くん、さっきクルクルやってたけどもしかしてワイン通なの?」

「いやいや、ワイン飲むのは今日が初めてだよ。さっきのはそれっぽいことをしてみただけ」

「びっくりしたよもう。わたしだけワイン素人だと思ったんだからね」


 そう言いつつ美咲もワインを口にすると、


「本当だ、美味しい」


 と驚いたようにそう呟いた。

 僕らみたいな素人でも美味しく飲めるワインがあったとは、と感心するとともに赤ワインの方も飲んでみたいという気持ちが湧いてきた。

 次なるワインを求め僕がグラスの方に手を伸ばそうとしたその時、


前菜オードブルをお持ちしました」


 あのウエイターがこちらへやってきた。

 どうやら赤ワインはメインディッシュまでお預けのようだ。


「こちら海の幸のテリーヌでございます」


 そう言うと、色華やかなその料理をこちらへとよこした。

 ワインと同様で、これもまた初めて食べる料理だった。

 華やかなのは見た目だけではなく、一口大のサイズに様々な具材が用いられており、とても上品ではあるがその中にしっかりとした美味しさもあった。

 「んー、これ美味しい」と美咲も目を細めながら言っている。

 その時お皿の端に添えてあった何かがとまった。


「美咲、これももしかして薔薇かな?」


 飾り付けの中で一際目立つものがそこにあった。丁寧に添えられたオレンジ色のバラの花びらが一枚。

 

「あぁ、本当だ。多分薔薇だと思うよ」


 そう言って、持っていたフォークでツンツンとその花びらを弄んだのち、何かを思い出したように突然ポケットの中をまさぐり始めた。


「美咲、どうかしたの?」

「いや、ちょっと———ええっと……そうそうこれだこれ」


 そう言うと、手に持った二枚のカードのうち一枚を僕に渡した。

 

「これ見て、ここに『当店の薔薇は特別な処理がなされているので食べることができます』って書いてあるよ!」


 確かに本当だ。渡されたカードを見てみるとそこには様々な色の薔薇の写真とそれについての説明が書かれていた。


「でも一体、このカードは?」

「これもワインと一緒に渡されたの、純一くんがいないときに。特に何も言われてないけれどここに書いてあるってことは食べられるってことだよね?」

「んーーー、確かに食用薔薇の存在は聞いたことあるし……。でもまあ書いてあるなら食べてもいいと思うけど。———もしかして美咲食べるの?」

「うん。だって食べたことないし、食べてみたいかな」


 すると美咲はフォークを使って器用にオレンジ色の薔薇の花弁を口へと運んだ。一、二回咀嚼したのち、もの珍しげな顔をして、


「なんか不思議な味」

 

 と一言つぶやいた。

 どんな味なのかとても興味をそそられて僕も食べてみようか、と一瞬思う。

 この店の代名詞とも言える薔薇は他の料理にもついてくるのだろうか。

 手元に視線を戻して、改めてカードを見てみる。

 このオレンジの薔薇も載っているはずだと思い、探してみると案の定写真とともにこう説明が書かれていた。

 

 『オレンジの薔薇の花言葉は—絆—です』

 

 絆以外にもいくつかの意味があるらしいが、何故かそれだけがピックアップされていた。

 その他の薔薇にもそれぞれの花言葉があるみたいで、写真があるものから無いものまで加えて十種類以上であった。

 さらに薔薇の本数や組み合わせによっても示す意味が異なるようで、それらも一つひとつ書かれていた。

 見たことない色の薔薇がたくさんあっただけで驚きであったが、それに加えそれぞれが花言葉を持つということは、この店に来なかった限り知り得なかっただろう。

 これは何かの巡り合わせかもしれない、そう思うと薔薇を食べられずにはいられなかった。

 ゆっくりとそれを口の中に入れてみるととほのかな甘い香りが鼻を抜けた。

 舌触りに違和感が少しあったものの絹のような食感で、美咲の言う通り確かに奇妙な味だった。

 決して味が格別に美味しいというわけではないが、もう一度食べてみたいという気持ちにさせる何か特別なものがそこにはあった。

 ちょうど僕が前菜を食べ終えた頃、次なる料理が運ばれてきた。


「スープをお持ちしました。———こちらエビのビスクでございます」


 目の前に運ばれてきたスープに立つ湯気からは、生臭いと感じさせないエビの香りがした。

 あの独特な甲殻類の匂いを消すために様々な工夫がされているのだろうか。

 もしかしたら薔薇の匂いがそれを打ち消しているのかもしれない。

 スープにもまた、先ほどと同様にバラが添えられていた。

 今度は黄色である。

 あのカードを見てみると、そこにはこう書かれていた。


 『黄色の薔薇の花言葉は—愛の告白—です』


 そのあとも僕たちは魚料理、肉料理と順に堪能した。

 勿論それらにもそれぞれピンクと赤の薔薇が添えられていた。


 『ピンクの薔薇の花言葉は—愛の誓い—です』

 『赤の薔薇の花言葉は—熱烈な愛—です』


 どれもこれもが今まで味わったことのないような妙味であった。


 そして帰り際にあのウエイターが、


「薔薇は不思議な力を持っています。聖なるこの夜、あなた方をきっと幸せへと導いてくれるでしょう」


 薔薇の残り香を背に、僕たちは家路についた。



 帰り道、寒空の下で美咲と手をつなぎながら帰る。

 ワインを飲んだせいか、体が妙に熱っていた。

 「今日は楽しかったね」と美咲が言う。

 思い返してみると、うまくエスコートをできたかは別として、自分なりに計画的に過ごせたと思う。

 過程がどうであれ、美咲が楽しんでくれたならただそれだけでいい。


「僕も美咲と一緒にいられてとても楽しかったよ」


 思っていたことをありのまま伝えた。

 今日で美咲とのがより深まったのは確かだ。

 そして、この関係が永遠に続くことをこの聖なる夜に願いたい。

 いつの間にか路地をぬけて、いつもの商店街に戻っていた。

 いつもは夜になるとシャッターを閉める店が多いのだが、今日は人通りが多くほとんどの店がまだやっていた。

 近年の廃れたシャッター街の話はよく聞くが、ここは駅前ということもありこのようなイベントのときは夜まで街の光は灯る。

 今日は聖なる夜。

 多くのアベックがクリスマスツリーの近くに集まっていた。

 僕らもそのうちの一組である。

 いつもならここでお別れであるのだが……、


「純一くん、今日はとっても楽しかった。でも今日はもっと一緒にいたいかな」


 そう言うと彼女は僕の手をギュッと握った。

 カラフルなイルミネーションの光に照らされた彼女の顔色ははっきりと判別できないが、少し俯いた横顔からは彼女の気持ちが伝わってくる。


「……うん、わかった」


 野暮なことは一切言わなかった。

 僕はもう大人だ、状況から察するだけで十分だ。

 だが、表向きは表情を変えなかったものの心の中では様々な思いが渦巻いていた。

 そこから僕たちは彼女の家に着くまで言葉を交わさなかった。



 一人暮らしとは言え、彼女の部屋は整然としていて綺麗だ。

 先ほどまでわからなかった彼女の顔色も、白熱灯に照らされて薄い桃色になっていることに気づいた。

 ワインも飲んだし、あとは酔いとこの雰囲気に身を任せるだけだった。

 彼女と唇を重ねる。

 ファーストキスはレモンの味と言ったりするが、僕のファーストキスは薔薇の味がした。

 もちろんこれは比喩でもなんでもなく、薔薇を食べたことと薔薇の香りがするワインを飲んだ影響だろう。


「大好きだよ純一くん」

「僕も……」


 美咲が上目遣いで僕を見つめる。

 そんな彼女の瞳には僕が映っている。

 こんなに密着したのは今日が初めてだ。

 そして僕たちは再び唇を重ねた。

 頭がぼーっとして何かに吸い込まれるような感覚になる。

 そこでふと、今日食べた薔薇の花言葉を思い出した。


 『オレンジの薔薇の花言葉は—絆—です』

 『黄色の薔薇の花言葉は—愛の告白—です』 

 『ピンクの薔薇の花言葉は—愛の誓い—です』

 『赤の薔薇の花言葉は—熱烈な愛—です』

 

 まるで薔薇の花が僕たちを導いてくれたようではないか。

 僕があの時厨房で見たのは大量の薔薇の花だった。

 あの時は一瞬、この薔薇は何に使うのだろうと訝しく思ったりしたものだ。

 だが今となっては、その薔薇と巡り合えたおかげで美咲と僕とはこうして二人で———。

 唇を離すと、美咲は陶然とした表情で僕を見つめて、


「いいよ」


 と一言。

 考える余地などなかった。

 本能の赴くままに僕は美咲を愛撫し、溺れた。

 彼女もまた僕の腕の中で乱れ———そして二人で果てた。



 いつの間にか寝てしまったようだ。

 ———体が重い……。

 昨日のワインのせいだろうか、それとも美咲との……。

 

 ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ


 ———あぁうるさい……。

 何かの音がする。だが、まぶたが重く目を開けて確認することができない。それに金縛りにあったように手足が動かない。


「あぁぁ…………」


 絞り出すようにして出した声は言葉にはならなかった。


「おはよう純一くん。起きちゃったんだ」


 ———美咲……?

 何だろうこの違和感、美咲の声で間違いないのにまるで別人のような……。


「ちゃんと寝てないとダメだよ」


 その瞬間、腹部に何か冷たいものが触れたと思ったら———、


「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 形容できないほどの痛みが襲ってきた。

 もがいても体はうねるだけで逃れることができない。

 この時初めて、僕の手と足は何かに縛り付けられているのだと知った。

 痛みのショックにより一気に目が冴え、そして目に入ってきたのは目の焦点が合わずに宙を見つめている美咲の姿だった。

 この体の重さは酔いでも疲労感でもなく美咲が僕の上に乗っているからだった。

 

 ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ


「…………」


 美咲は無言になると再び僕の上でうごめき始めた。

 刺された傷が振動とともにズキズキと痛む。 

 ———一体なぜ美咲はこんなことに……。

 

「……美咲どうして……、こんなことやめて……」


 もう僕の声は届かないようだ。

 恍惚の表情で宙を見つめ、体を震わせながら痙攣している。

 それも昨日の夜、僕と愛し合った時に見せなかったような表情で。

 もはや僕の全てがぐったりとしているのにも関わらず、美咲は一人動き続ける。


 ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ ギシッ


 『薔薇は不思議な力を持っています』

 遠ざかる意識の中、あのウエイターの言葉が頭の中で反響する。

 厨房で料理人たちがしていた会話は薔薇のことについてだったのだろうか。

 この状況はあの薔薇によって導かれたのだろうか。

 でも僕たちが食べた薔薇にはこんな不吉なことを表す花言葉なんてなかったはずだが……。


 いや、違う———確かに僕たちが薔薇を食べたが、それだけではなく薔薇をではないか。

 透き通った白ワイン、そして血のような赤黒い色をした赤ワイン。

 だが、今さら気づいてもどうにもならない。

 

「美咲……愛してる…………」


 どうにかして出した言葉はやはり美咲には届いていないようだ。

 そして僕の意識は——————。



 

 男が死してもなお女は動き続けた。

 かつての穏やかな表情は消え、血肉を貪る獣のようである。

 その傍らにはレストランでもらったカードが落ちている。

 そこにはこう書かれていた。


『黒赤の薔薇の花言葉は——です』

『白い薔薇の花言葉は—純潔—です。ただし、折れた白い薔薇だと——になります』

 

 女はやがて事切れたように目を見開くと、男の腹部に刺さった刃物を抜き取った。

 そして両手でそれを持つと、自分の腹に向け十文字に切り裂く。

 血が勢いよく飛び散るが、女は声一つ上げずに男の隣に倒れた。

 仰向けになった女の腹には真っ赤な薔薇の花が咲いていた。

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