107話 春雷
「まあ、とうとうおこうさまのおたくにも」
「はい。何のご詮議か尋ねても申しませんので、たいそう父が怒りまして。でも、御上の大事な御用だと申すものですから」
「ごめんくださりませ」
廊下からお豊が声をかけると、六畳の待合は一瞬静まり返った。
「お豊さま」
「おこうさま、お光さま」
唐紙障子を開けると仲の良い二人以外、武家、町家の若い娘がところ狭しと集っている。皆風呂敷包みを傍らに置き、お喋りの真っ最中だ。
「お豊さま、例の御用聞きが、とうとううちにも参りました!」
「留蔵さんね」
こくこくと頷く二人は、質素ながら武家拵えだ。年はお豊とそれほど変わらない。
日本橋呉服町、通二丁目にある春駒屋である。評判の良い呉服問屋で、仕立ての内職に大勢の娘が通っていた。
お豊もその一人だ。生来の器用さもあってか、今では値の張る婚礼衣装も託される。決して家計が苦しいわけではないし、父もあまり良い顔をしていないが、お豊は外へ出ることが、誰かのために働くことが大好きだった。
「では、やはり例の練絹の」
「はい、お高そうな博多献上の男帯」
三人は顔を見合わせ、頷き合う。
「縫い目を見てくれと言われて袖を一枚」
手渡されて、お前さまの手かと問われる。
「それで、覚えはありました?」
さあ、とおこうが首を傾げる。
「同じようなお針の仕事は多いし、片袖だけではなんとも」
春先、二月の半ばあたりからだ。南町奉行所の御用聞きが、仕立て内職の先を訪ねては、縫い目に見覚えはないかと訊いて回っていた。何の詮議か明かさずに、片袖を見せて「見覚えはないか」と訊ねるばかりだ。御用聞きの名は留蔵。いかつい鬼瓦のような親分さんだった。
「お豊さまのところへも、多分、もうじきやって来ます」
「御用聞きに探られるようなこと、私、まったく身に覚えはありませんけど」
「それは私だって」
「私も!」
三人は、身を折って笑い出した。
備前屋徳右衛門は、三河町に店を構える桂庵である。飯田あたりの
口入屋とは武家奉公専門の人材斡旋業で、旗本屋敷の年季奉公から参勤交代の臨時雇いまでを手配する。なかでも備前屋は、無理難題を進んで引き受け、十年で大大名御用達の大店へとのし上がった。
一方で、些細な困りごとにも気軽に耳を傾けることから、近隣の町衆からは「菩薩様のようだ」と慕われ、雇人からの評判もよい。暇があれば店先へ顔を出し、小猿のような顔をくしゃくしゃにして腰低く応対する。
だが今日は、いつもとは異なる様子で薄暗い、穴蔵のような板間にいた。侮るような笑みを浮かべ、背も二、三寸伸びたかのようであった。
その相模屋の視線の先に、華奢な少年の背中がある。壁に切った小さな穴から、隣りの座敷を覗いていた。
「あの人、相当に焦っているようだね。酷い人相だ。でも、野に放てば、文字通り鉄砲玉のように飛んで行くだろう」
総髪を一つに束ね、子供相手の物売りのような軽装だ。
「納得されたかな」
「何をだい」
備前屋は、隅にある梯子のような階段を上った。その後を、軋みひとつ立てず付いてくる。
跳ね戸の先には引き戸があり、真昼の日差しが漏れていた。
「ごめんくださいまし」
六畳ほどの茶室となる。炉で湯が沸き、躙口の近くに浪人者が一人座っていた。頬のあたりに深い陰がある。年は三十か、その上か。いつも若い主人に、張り付くように従っていた。
「仕損じた場合、どうする」
徳右衛門は、軽く眉を寄せた。おのれより二回り以上年の離れた
「守備よくことが進めば良し。進まねば、それはそれで良し」
酷薄な笑みが返る。
「あのお侍、はなから期待されていないと知ったらどうするかな」
「どちらにせよ、生きるつもりはあるまい」
「つまらないなあ。これほどの忠義の士は滅多にいないのに。瀧殿は、そうは思わないのかい」
ちろりと舌で口唇を舐めた。
「さあ。この徳右衛門は町方ゆえ、お侍の忠義などわかりかねる。──それより、仕掛けは如何ようかな」
あどけなく首を傾げた。
「なるようにしかならないさ。瀧殿も同じだろう? 忠義だ、孝行だと騒ぐのは、お侍だけで充分さ」
兄に似た穏やかな笑みを返し、浪人者へ顎をしゃくった。
「左近、行くぞ」
庭へ降り、黒板塀の木戸から消える。出た先は、采女ヶ原の歓楽地だ。
備前屋は、悠々と茶を点て始める。それを持って、給仕口から隠し部屋へと戻る。板壁を三度叩いた。
「安財様、一服お点てしましたゆえ、入ってもよろしゅうございますか」
「備前屋か。入ってくれ」
壁が反転し、旅装の武士が端座していた。八畳ほどの座敷で、夜具が隅に重ねてある。
まだ若いが、滑らかな頬は病的なほど青白く、目元は落ち窪んで尋常な態ではない。掌中の黒い鉄塊を、熱に浮かれたような目で眺め、愛しそうに撫でる。
「備前屋、これが我家に受け継がれてきた玄武だ。天下分け目の戦でも、群を抜く戦果を上げた。我が家は、この鉄砲ゆえにお取り立てとなったのだ。矢のように的を外さぬ。今では手に入らぬ、根来由来の鉄砲だ」
分解し、ひとつひとつを念入りに磨き上げていたようだ。
「安財様、そろそろ日暮れて参ります。夜は長うございますが、まずは一服。そのあと、すぐに軽いお膳もお持ち致しましょう」
安財は頷き、銃身を銃床へ戻す。麻布で包み、刀袋にも似た錦の袋へと納めた。
「改めて礼を言う。備前屋徳右衛門、おまえには本当に世話になった。無事、ことが成った暁には」
「無用でございます」
備前屋は、やんわりと有無を言わせぬ口調で遮った。
「以前も申し上げたように、今日を限りに手前のことはご失念くださいまし。手前はただ、困っているお方をお助けしただけでございます。何も聞いておりませんし、見てもおりません」
「町方に、お前のような私心なき者がいようとは思わなかった」
安財の震える声に、鷹揚に笑み返した。
「手前はただ、安財様のお心に打たれたのでございますよ」
尾張藩脱藩、元鉄砲方安財数馬は、感に堪えぬといった面持ちで姿勢を正し、備前屋徳右衛門へ深く一礼した。
(続く)
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