108話 本間道場
さて、時は数日戻る。
二木倫太郎は、牛込榎木町の本間道場にいた。先日、原賢吾に誘われてのことだ。
本間道場の主人平右衛門は、代々剣術指南役の家であったが、父の代に主家が改易に遭い出府。
その本間道場へ倫太郎が関わるようになったのは、南町奉行所の定町廻り同心、堤清吾からの依頼であった。委細は語らぬ男だが、倫太郎としては〈狐〉──義賊・閻魔の狐こと篠井音哉の情報を得ようという意図がある。
「原様、二木様!」
式台で訪うと、年若い門弟──鏑木景之進が仔犬のように飛んできた。童形にそぐわぬ、手足のしっかりした上背のある若者だ。
「盛会のようだね」
「はいっ! 今日の主賓は先生のご親友とのことで、さらに多くの方がお集まりになっています」
「先日戻られた、山之内殿とは違う御仁か」
手広くなった所為か、このひと月あまりで食客が増えた。その多くは、かつての同輩らしい。
「はい、原様。お国許で、先生の好敵手だったお方とか。坂井様がおっしゃるには、果たし合いを仕掛けられたのに先生は……」
と、景之進はきゅっと口をつぐんだ。頭を掻く。
「姉からいつも〝お喋りは、おなごのすることです〟と嗜めるられるのですけれど」
ばつが悪そうにしていると、丁度、母家の奥から景之進を呼ぶ声がした。
「では、失礼いたします。また、後ほどお伺いします!」
駆け出して気付いたのか、ぎくしゃくと早足となって廊下の奥へ消えていった。
「行きましょう」
まずは、道場へと足を向けた。常連の門弟達が車座になって歓談していた。台盛りの料理やら酒やらが積むように置かれ、皿や箸も揃っている。
「おお、原殿。こちらのお客人はどなたかな」
原賢吾と同年代の男が立ち上がり、気安げに声を掛けてきた。木綿の小袖と袴という質素な身形だが、暢んびりと品が良い。すでに、頬から首にかけて赤くなつている。
「坂井様」
「申し遅れました。二木倫太郎と申します。原さんと同じ長屋に住む者です」
倫太郎は手近な酒徳利を掴むと、坂井が手にする酒盃へ注いだ。
「こちらの道場には一騎当千の剣客の方々が揃っていると聞き、ぜひお近づきになりたいと伺いました。本間先生には、以前一度ご面識を得ていますので、図々しくもお邪魔した次第です」
「左様か」
坂井
「いや、ご浪人の方々にこそ腕自慢が多い。我等のへっぴり腰では、到底太刀打ちできぬ。この原殿がよい例じゃ」
なみなみと注がれた酒を、倫太郎は一気に空けた。
「おお、頼もしい! では、いずれ二木殿ともお手合わせ願おう」
無邪気に剣を振るう真似をするのへ、倫太郎は笑顔で酒盃を戻す。
「私は原殿と違って、そちらは不調法です。もっぱらこちらの方が」
重ねた椀を取って酒を注ぎ、あれよと言う間に飲み干した。
「お見事、気に入った!」
倫太郎が直参の子弟と歓談する姿を横目に、原賢吾は道場を出た。人を探すような素振りで、母屋を回って行く。
若い門弟たちは、皆道場に集まっているようだ。座敷には平右衛門と近い壮年の人物が多く、身なりも様々だった。建具は開け放たれているが、覗く原を不用意に睨んでくる者もいた。
「失礼」
次の座敷を覗く。
(やはり、抹香臭いな)
仏間のそれだろうか。見渡しても僧形の客はなく、歓談するでもなく、互いに背を向けるように座して、黙々と酒を含んでいた。
旧友を迎えての宴会にしては、なんとも辛気臭い。
原賢吾は、座敷の奥、普段は平右衛門の居室となっている襖戸に手を掛けた。人の気配がある。縁側に廻るべきか一瞬迷った時、
「何用かな」
ひやり、とした。振り返ると、黒々とした総髪の男が立っていた。
「確か、原殿、と申されましたな。どなたかお探しか」
「山之内殿」
先般帰府したという道場の高弟、山之内主膳だった。浪々の身というにはこざっぱりとした身形で、どうやら金まわりも悪くなさそうだ。年は、原よりも年長の三十半ばあたり。剣客というより、お抱え学者のような風貌の男だ。
だが、隙がない。
「本間先生を探しております。ご挨拶申し上げたい」
「先生は今、他出されておいでです。一刻(約二時間)ほどで戻られるでしょう。しばらくして、またおいでなさい」
「客人ではないのですか」
閉じた居室の戸を示す。
「さあ」
山之内は微笑んだまま、
「先生は、外出しておいでだ」
「そうですか」
確かに、人の気配がする。本間道場は平右衛門の人柄もあって、いつも開けっぴろげだった。人払いなど聞いたこともない。
山之内という男の態度も妙だった。
「原さん、こちらでしたか!」
廊下を渡ってやって来たのは倫太郎だ。にこにこと笑いながら、二人の間に入り、
「私も本間先生にご挨拶したいのですが、おいででしょうか」
笑顔の目元がほんのり赤い。山之内に気付いて破顔した。
「二木倫太郎と申します。こちらに本間道場生え抜きの剣客の方々が集うと聞き、原さんに連れて来て貰いました」
山之内は、目礼を返す。
「山之内主膳です。ご期待に沿えましたかな」
倫太郎は、目を輝かせた。
「ああ、あなたが山之内殿ですか! 他のご門弟からご高明を拝聴しました。全国を周って修行されたそうですね。お差し支えなければ、諸国の状況について、ぜひご高説を拝聴したい!」
山之内は、まんざらでもないようだ。ちなみに
「申し訳ない。今日は所用があるので、また次回にしましょう。先生は多出中ゆえ、お引き取り下さい」
倫太郎は、酔いを醒ますように首を振った。
「少々酔ったようです。失礼をお詫びします。次回、是非とも。さあ原さん、行きましょう」
原賢吾を促し、玄関へ向かう。背中に視線を感じながら、二人は本間道場を出た。すでに午後も遅く、風も冷めていた。
黙々と歩いて武家地を離れ、町方の賑わいの中に入って、
「何か、ひっかかりますね」
原賢吾は、自然と倫太郎の背後を守るように一歩下がる。
「山之内という御仁、先生は不在と言いながら、閉め切った居室に人の気配がありました。今度、それとなく尋ねてみましょう」
「原さんの、例の勘ですか」
「──まあ」
原賢吾の得意は、気付かずとも良い異変を察知することだ。それで得したことはない。
「では、くれぐれも子供は巻き込まぬようにして下さい」
「無論です」
原賢吾は、倫太郎へ問い返そうとして、黙した。鏑木景之進を、知っているのではないか──そんな気がしたのだ。
「ともあれ、あの道場の酒はなかなかのものでした。それは確かです」
倫太郎が振り返り、晴れ晴れとした笑い声を上げた。
江戸の夜陰を、幾つもの影が走り抜けた。
新月の晩である。
大戸を下ろした大店が続く通りを、陰を縫うように黒装束の賊が走り抜ける。
やがて、そのうちの一軒をほとほとと叩いた。
木戸が開き、淡く灯りが漏れた。
ひとつ、またひとつと影が吸い込まれていく。
そうして、最後の一人が灯りを背に振り返った。
白面だ。
耳まで口が裂けた狐面が闇を睨め付け、戸口が閉まる。
(続く)
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