106話 鏑木家の人々

「父上、それでは道場へ行って参ります」


 鏑木景之進けいのしんは、父半兵衛へ手をついて頭を下げたものの、どこか落ち着かず、すぐに腰を浮かせた。


「景之進、帰りはいつ頃になりますか」


 奥から顔を出した姉のとよが、すかさず声をかけた。弟は立ち往生したように、父と姉の顔を見つつ口籠る。


「いつ、と申されても、たぶん、夕餉までには戻って……ええと」

 語尾が消えそうになるのは、いつものことだ。


 景之進は今年十五。前髪立ちながら背はとうに姉を越え、面立ちも日に日に父に似てくる。だが、豊にとってはまだまだ子供だ。特に、母が亡くなって以来、四つ下の弟の面倒を懸命に見てきた。だからこそ、いまだひと睨みすると、小禽よろしく縮こまっていく。


「景之進、きちんと返答なさい」

 弟は座り直した。

「本間道場で稽古ののち、午後に講話があるそうなのです。皆、残ると言っているので、私も……」

「講話とは、どのようなものだ」

 父半兵衛が問い返す。

「それが、私も聞いていないのですが、皆が……」

「あなたはいつもそれね。皆さんが、皆さんがって」

「だって、姉上。みんな行くのに、私だけ行かなかったら話についていけません。ご直参やご家中も多いなかで、私のような……」

「景之進!」

「構わんよ、豊」

 と、姉を制す。

「夕餉までには戻りなさい。酒席へ出ることは罷りならん」

 景之進はさっと頬を赤くした。

 半兵衛は硯箱を閉じると、文机を片付け始めた。


「豊、でかけて来る」

「今日は十日でございますから、木挽町の田宮道場でございますね」


 頷く。師範代として、月に三度通う町道場だ。


、夕餉までには戻る」

「殿方は宜しいこと」

 豊はくすりと笑い、台所へ戻って行った。


「行くぞ」


 息子を促し、共に出掛ける。通りを一本入った三間の借家は、こじんまりとして小綺麗だ。猫の額ほどの庭に、小ぶりの紅葉もみぢが枝を伸ばし、見事に紅葉する。

 この住居に越してすでに十年だ。子を育て、妻を失った。


「姉に心配をかけるな」

 半兵衛はそれだけ言った。

「はい」

 二人はしばらく無言で歩いたのち、其々それぞれの行先へと別れて行った。





 豊は今年十九だ。そろそろ嫁に行っても然るべき歳なのだが、

「景之進が一人前になるまでは」

 と、縁談を断り続けている。

 父が言うには、母によく似てきた──らしいが、豊自身、そうとは思えない。


 母が亡くなったのは、十二の年だ。首のすんなりした、自慢の美しい母だった。

 その日を境に豊は台所へ立ち、父と弟の世話を続けている。日々穏やかで、なに一つ不満はない。だから、今しばらくこのままでいたい──それが豊のささやかな望みだった。


「お豊さま、今日はなにをお持ちになりますかね」


 行きつけの南新堀にある青物屋(八百屋)に寄ると、今朝採ったばかりの筍が幾つも並んでいた。店番の婆は千と言って、いつも旬の野菜を教えてくれる。


「その筍はおいくらですか」

「お千さん、筍をふたつお願いします」


 声がぶつかった。同じように店先を眺めていた若い浪人者だ。「あ」というように笑顔になり、どうぞと豊に頷きかける。鼈甲縁の丸眼鏡をかけ、元服しているものの、年の頃は弟を同じぐらいだろうか。


「おや、さとやさんもお豊さまも目が高いね! 米ぬかと鷹の爪を入れて茹でて、そのまま冷ましてくださいよ」


 千と呼ばれた店番の婆は筍を持ち比べ、大きなものを豊の籠にひとつ、〝さとやさん〟の籠へ二つ入れた。ほんのり土の香がしてくる。


「それでは、失礼いたします」

「ご免下さりませ」


 青物屋の店先で会釈を交わし、二人は別れた。

(ふたつって、お身内が大勢なのかしら)

 なんとはなしに可笑しくなり、豊はくつくつと笑いながら帰途へ着いた。





 鏑木景之進は約束通り、夕餉直前に帰宅した。わずかに頬を上気させ、目を輝かせている。


「景之進。御酒を頂いたのですか!?」


 かすかな酒気は、誤魔化しようがない。姉の豊が眉を上げると、すっぽんよろしく首を引っ込めた。幼い頃から、豊にだけは敵わない。


「ち、違います! どうしてもと周囲に迫られて、仕方なく……、一口舐めた、だけです!」

「まあ、ならば嘘をついたのですね! 父上、父上っ!」


 豊は玄関先で受け取った大刀を袖にくるんだまま、奥へと小走りに呼ばわる。


「姉上!」

「何を騒いでいる」


 大きな家ではない。近所に筒抜ける賑やかさだ。


「この子、お酒を飲んできたのです!」

「だから、姉上! それに、、などと子供扱いしないで下さい!」


 いつまでも仔犬のような姉弟に眉を寄せながら、半兵衛は半ば安堵する。母不在のなかで、よくも健やかに育ってくれたものよ、と。




「それで景之進、今日の本間道場での講話とはどのようなものだったのだ」

 夕餉の後、火傷するほど熱い炒茶を啜っていた時だ。豊は台所で片付けものをしている。通いの下女は、夕餉の支度を手伝って帰るのが日課だ。


 景之進が通う牛込の本間道場は、やはり新陰流の町道場で、場所柄その門弟の多くは旗本の子弟であった。道場主の本間平右衛門は、半兵衛にとって兄弟子に当たる。


「それが、驚きました」

 景之進は、話したくて堪らないようで、膳を前にしていても、どこかそわそわと落ち着かなかった。ちらちらと姉が弟に目を遣り、笑いを堪えていたほどだ。


「何に、驚いたというのだ」

 景之進は、さっと表情を引き締めた。父からは、武士たる者、滅多に驚いてはならぬ──そう教えられてきた。

「申し訳ありません。驚いたというより、意外だったのです」


 景之進が言うには、午前ひるまえの稽古が終わって、いつものように湯漬けが振る舞われたあと、高弟の一人が若い兄弟子ら数人と、御政道に関して諫言ともとれる意見を論じたと言うのだ。


 近年の悪天候、農政転換による百姓らの困窮、さらに神君家康公以来の朱子学の教えを蔑ろにした結果、著しく人心が荒廃し始めた──というような弁であったらしい。

 尋常のことではない。しかも門弟の多くが、直参の子弟である。


「本間先生はご存知なのか」

 景之進は、子供のように首を傾げた。

「先生は他出されていたようなので、……ご存知ないかもしれません」

 は四半刻(約三十分)もせずに終わり、その後は仕出し屋の料理と酒が振る舞われ、武家ばかり二十名ほどで、賑やかな酒宴となった。


「皆は賛同していたのか」

 どうでしょう、と景之進は上目遣いになる。

「私もですが、突然のことで驚い……意外だった、という方が多いのではないでしょうか。しかし、あの弁当の煮貝は美味かったなあ」

「高弟とは何方どなただ」

 ええと、と上目遣い。

「確か、山之内様と申されて、かつて父上のように全国を回られていたそうです」

「つまり、ご浪人か」

「はい。元亀天正の頃、さる大名家にお仕えした家柄だそうですが、天下分け目の合戦で敗れ、お取り潰しに遭ったとか」

 我が家と似てますね、とでも言いたいらしい。


 半兵衛は気づかぬふりのまま、「酒はほどほどにせい」とだけ言って話を終わらせた。





(続く)





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