105話 過去の風
「お側に内通者がいる、との仰せか」
倫太郎は破顔した。
「筋が通らなくてね」
裏長屋というほど粗末ではないが、深川の門前町辺りに在るべき品ではない。全戸が荒らされたわけでもなく──木戸番の才助が見張っている限り、それはあり得ない──倫太郎の住いの、相州貞宗だけが忽然と消えた。
直接持ち出したのは伊勢屋のおたねであったとしても、おたねのもとにそれが在ると、どうして〈狐〉は知ったのか。さらに、それを手に入れたことで、閻魔の狐──つまり、里哉の二子の弟、篠井音哉は何を企んでいるのか。
「誰をお疑いか」
「お里ではないよ」
「言い切れますかな」
「角兵衛は、叔父上を疑うかい」
倫太郎の母方の叔父、篠井児次郎は幕府の御庭番である。里哉、音哉兄弟の父であることで、その信頼が裏切られることはない。
「お里も同じだ」
頷いたものの、得心していないようだ。
加納久通の務めは、おのれの主君を守ることだ。幼少期より、文字通り身を賭して守ってきたと聞く。その忠誠のありようを理解しているからこそ、倫太郎はこの老臣を信頼していた。
だが、いま倫太郎が知りたいのは〝誰か〟よりも〝何故か〟なのだ。理由がわかれば、先読みができる。自然、音哉が仕える〝お方〟も見えてくるだろう。
「問題は、向こうに誰が居るかだよ」
倫太郎の存在を知り、音哉の出奔にどこかで関わり、義賊・閻魔の狐として御落胤を騙る。
到底、倫太郎一人を陥れる策とは思えない。
(いま少し時が必要だ)
爽やかな風が通った。
池の水面が輝いていた。
時折思うことがある。幼い頃、母と過ごしたあの屋敷は、市中、どこにあるのだろう。
「──そういえば」
倫太郎は、ふと思いついたように言った。
「先日、牛込柳町の町道場で懐かしい名を聞いたよ」
加納は、不得要領な顔をする。
「鏑木甲之助という若者でね」
ちらりと老臣を見遣る。
「面差しが、よく似ている」
「──ああ」
加納は、困ったように笑った。倫太郎は、楽しげに目を細めた。
「半兵衛は、達者にしているのかい」
拾ったのは紀州藩主の側近、加納久通その人である。ひょんなこととは、些細な人助けであった。
ある日、通りがかった茶屋の店先で、娘がどこぞの家中の若侍に絡まれていた。どう見ても町娘と侮った難癖だが、相手は大藩の家中のようだ。誰も手を出しそびれていたところ、半兵衛はすかさず進み出ると、相手の非を問うのではなく、地に土下座し許しを乞うたのである。二人の若侍はそれで正気に返ったのか、早々に鉾を納めた。が、愚かにも半兵衛の脇を通り様に、その拳を振るおうとしたのである。
次の瞬間、若侍は地に伏していた。何が起ったのかもわからず、天を仰いだままきょとんとしていたらしい。
そして、町方がやんややんやと大喝采の中、這々の態で逃げ出した。
誰が見ていたのか、それからひと月もせぬうちに、妻と住う裏長屋を訪ねる使者があった。
御三家、紀州徳川家の家中の者と名乗った。
結果、半兵衛は新陰流皆伝の技量を買われ、江戸藩邸の剣術指南役として禄を食むこととなった。
夫婦は裏長屋から御長屋へ移り、日々の出仕や付き合いにも慣れ、穏やかな暮らしが身についた頃、しかし、半兵衛は気付いてしまった。
宮仕えは性に合わぬ──無論、仕官が適ったという嬉しさあるのだが、このまま伸う伸うと日々を過ごすだけで、武芸者と胸を張れるのだろうか。
が、一旦家臣となったからには、勝手に辞めるわけにもいかない。
考えあぐね、仕官のきっかけとなった加納久通へ相談した。
身の程知らずと一喝されると思いきや、加納は驚きもせず言った。
「で、半兵衛。浪々の身へと戻り、何を望むのだ」
「武者修行に出とうございます」
加納は暫し黙し、任せるようにとだけ言った。
それから半年ほどののち、半兵衛へ上意が下った。
武芸百般は武士の
半兵衛は、腰が抜けるほど驚いた。しかも十分な月々のお手当と、「帰藩構わぬ」とのお墨付きまでが下されたのだ。
こうして鏑木半兵衛は妻を伴い、お長屋から再び市井へと戻った。
以降、半兵衛にとって至極満ち足りた暮らしであった。
槍術の達人が居ると聞けば出掛けて教えを乞い、小太刀の名人と聞けば、やはり惜しまず自ら足を運んだ。そうして年に数度、おのが鍛錬の様子と、藩の武芸指南についての意見書をまとめ、加納へ上申した。
年月が経ったある日、加納から呼び出しがあった。訪れた深川永代寺の塔頭で、半兵衛は思わぬ大事を託された。
御用屋敷に暮らす子供を、紀州田辺下秋津の宝満寺へ届けよというのだ。
「お子、でございますか」
命じられて否はないが、子供を伴っての長旅とは意外が過ぎた。
「なかなかに活発なお方だ。くれぐれもその身に危険の及ばぬよう見ていてくれ」
「一体どなた様でございますか」
加納久通は、無言で頷いた。
「まさか」
「要は、その
半兵衛は息を二つする間考え、
「承知仕りました」
三日ののち、半兵衛は小者の源助を伴い、江戸を出立した。品川宿で対面したお子は、半兵衛へ軽く頷いてから、真っ直ぐ見上げてきた。
名を、二木倫太郎といった。
(続く)
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