104話 導火線(続)
ふたたび、猫屋新道の佐々燿太郎宅である。印籠を預け、十日ほどが経っていた。
二木倫太郎は堤清吾は、上り口で訪った。
応えははない。物音がするので、上がり込んで襖戸を開けると、乳鉢を抱え、なにやら作業に没頭する燿太郎の背があった。
「やあ、いらっしゃい」
居間は、相変わらず散らかり放題だ。妹によく似た顎の細い面立ちに無精髭を伸ばし、あっけらかんと笑って手を振る。その周りを二話の雛が、鳴きながら跳び回っていた。と言っても、親鳥ばりに丸々肥え、愛らしいのは頭の産毛ばかりである。
「そっちが五郎太、あっちが六郎太。よい子たちだろう」
と、燿太郎は愛おしそうに頭を撫でる。
「
堤は、燿太郎の手元を覗き込んだ。
「なんだい、そりゃ」
「
喉で音を立てる。
「捕まえるのには困らないけれど、大きすぎるからこうして」
「ああ、そのあたりにしてくれ」
堤は顔の前を手で扇ぎ、一、二歩下がった。
「構わないから、よく見ておいきよ。すっかり私を親鳥と思っているよ。俗説ではなかったのだねえ」
倫太郎は散らばる書物を押し退け、場所を作る。畳の所々に、糞らしき染みがあった。
そのまま燿太郎は雛の世話を焼き、半刻ほどかけて竹籠へ戻すと、今度は丁寧に道具を片付け手を洗い、ようやく座ったのは、さらに四半刻ほどのちであった。
「あれのことだろう」
と、文机にある堤の印籠へ顎をしゃくる。
「何かわかりましたか」
「もちろんさ」
燿太郎は、倫太郎へ投げて寄越した。
「確かめるまでもないけど、確かに塩硝だね。知ってるかい。日本には鉱脈がないんだ。だから、質のよいものは長崎会所を通して入ってくる」
つまり、高価な渡来の品だ。無論、幕府が買い上げる。
「だからと言って、猟師も山で鉄砲は使うからね。実は、作れないこともないんだよ」
燿太郎は反故を出し、図を描いた。
「基本はね、こういう造りの家の下、床下にある土を使う。桶に集めて一晩浸し、その水をとことん煮詰めるんだ。何度も繰り返して灰を入れて濾して、さらにまた煮詰める。おおよそ三斗の水から一斤半ぐらい取れるらしいから、塩造りより大変な作業だね。しかも、一度土を採ったら十年、二十年使いものにならないらしい。〝土〟探しも大変そうだ」
「こいつは越中五箇山の産だと聞いた。なぜ、そうわかる」
うーんと、燿太郎は天井を仰ぐ。
「たぶん、恐らく、だよ。私も万能じゃないからね」
と、前置きが長い。
「江戸に入ってきてくる塩硝は、ほとんどが武州秩父と上州産なんだ。それも古土法で作られたものなんだけれど」
古土法とは、先程燿太郎が説明した作り方を言うらしい。
「それと、どう違う」
「
倫太郎と堤は、互いに顔を合わせる。
燿太郎は痺れをきらしたように、印籠の中身を机上へあけた。
途端、臭気が立ち込める。夏の厠のようだ。
「どうだい」
「どうって、どういうことだ」
燿太郎は指で粉末を集めると、わざわざと嗅ぐ。
「塩硝にはね、実はもうふたつばかり作り方がある。連作できるやり方さ」
床下の土を使うことは変わらない。しかし、そこへ草や魚の
その手法を使うと、数年で定量かつ質の良い塩硝を生産できた。
しかし、どこでもできる手法ではなく、山間の或る地域でのみで可能であった。
「それが、越中五箇山辺りなのさ」
「ならば、臭くても値が張るな」
裏長屋の旅芸人が持つには、そぐわない品だ。
「〝上の塩硝〟は、藩主の加賀様へ納められるのだろう。でも、中と下はどうなるのだろうね」
それに、と燿太郎は続けた。
「江戸の薬種組合の商人たちは、だいぶ前からお上へ願い出て、塩硝の商いを一手に握ろうとしているんだけれど、これがなかなかお許しが出ない」
硫黄と木炭を混ぜれば、黒色火薬となる。誰もが気軽に店で求め、使うものではない。硫黄はすでに、組合専売となっている。
「こんなものが、無造作に長屋にあったっていうんだろう。だから、心配になるんだよう。うちの子たちも、これから大きくなるんだし」
「それが〝謎〟なんです」
ふうん、と燿太郎は気のない返事をする。
「私も耳を立てておくよ。今はそれだけさ」
だが、帰ろうと腰を上げた二人へ、燿太郎は「ああ」と言った。
「どうかしましたか」
「いやね。今回のことで、俗説も馬鹿にならないとわかったからね」
と、愛おしそうに鶉の雛へ目を遣る。
「どのような俗説ですか」
「忍び、だよ。あの辺りから摂津まで、昔から忍び働きが盛んだろう。彼らは今でも諸国を周り、薬を商う。山伏にも身をやつす。越中と言えば」
「薬売り、ですね」
「どんな関わりがあるか知らないよ。でも、無関係じゃないかもしれない」
言って、うーんと伸びをする。倫太郎よりも年長のはずが、どこかあどけない。
「私もそろそろ身を固めようかなあ。あの子たちを見ていると、ひとの子が欲しくなってきたよ」
「さあ、お待ちかねの〝閻魔の狐〟だ!」
刷物を片手に、辻に立つ男が声を張り上げた。すかさず足を止めた老若男女へ、若い
「今度はなんと、日本橋は
勢いよく紙束を叩く。
「さあ、一枚三文だ。売り切れたら終いだよ!」
「──ああ、角兵衛の耳にも入ったようだね」
「倫太郎様」
春光射し込む座敷である。倫太郎を迎えたのは、文字通り苦虫を噛み潰した面持ちの老臣──加納
加納は、幼少期より吉宗に仕えてきた側近だ。現在は
加納は二色刷の
「よく描けていると思わないかい」
「冗談ではすみませぬぞ」
深川八幡別当
名称たる庭園は春気に満ち満ちて、たわわな枝垂桜が水面へ花を落としていた。唐紙障子を開け放ち、往来う風は唯もう春爛漫であった。
「お座りくださいませ」
双眸が険しさは、いっこうに弛まない。
「また、心配をかけるね」
「問題は、角兵衛の心中ではござりませぬ」
「ご存知なのかい」
言外の相手は明白であった。
「いいえ。まだ、お耳に届いてはおりませぬ」
つまり、時間の問題なのだろう。
「倫太郎様は、この小町娘とやらに例のものをお授けになったと言うのですか」
「まあ、結果としてそうなった、とも言えるね」
倫太郎の口調は、春風のようだ。
「何れかの目利きに渡れば、如何なる出自か詮索致しましょうぞ」
相州貞宗。相州物のなかでも、名工中の名工として知られる。その幾振りかは、東照神君所縁の品として、徳川家の家宝でもあった。紀州藩祖頼宣へも、父家康の遺品として贈られている。
「関わった者は分かっている。それより、どうして所在を知ったのか」
「倫太郎様」
言い募ろうとする老臣を、珍しく倫太郎は制した。
「手引きした者がいるようだ」
(続く)
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