103話 野伏(のぶせり)
「つまり、こういうことだね」
「紛失した例の物を戻すために、真慧とおふくさんは
と、畳上の紙片を示す。
「残されていた」
── 見参 狐
おふくは、こくこくと鶏のように頷く。真慧はつまらなそうに欠伸をし、里哉は鼈甲縁の眼鏡の奥で視点が定まらない。
「倫太郎様。私は──」
「わかっているよ」
制され、口唇を噛む。
「だがお里は、伊勢屋を訪ねていない。
「やってねえよ」
頷く。
「これは、どういうことだろうね」
「どうもこうも、そういうこったろう」
真慧は懐手のまま、首の辺りを掻く。
「おたねがお里坊と見間違え、倫太郎がらみの厄介ごとに首を突っ込む奴と言えば」
里哉は紙片へ目を落とし、さらに肩を落とす。
「音哉、です。たぶん……きっと」
音哉とは、里哉の二子の弟だ。閻魔の狐──義賊を騙る。
三年前に養家を出奔し、江戸で再会した。姿は変わらぬものの、知らぬ誰かに仕え、盗賊となっていた。
「今度は、何をしようと言うのでしょうか」
「さあな。何れにせよ、碌なことじゃねえだろうさ」
ぐっと詰まる。
「しかし、音哉はどうしてあれのことを知ったのだろうね」
奥の箪笥へ目をやる。無造作に投げ入れてあったとはいえ、存在を知る者は僅かだ。
「私が角兵衛から直に預かった。知る者は限られる」
「間者をお疑いですか。この長屋内で」
おふくが口元をきゅっと結ぶ。
「そうは言っていないよ」
「すぐに母へ伝えます」
おふくが去ると、倫太郎は足を崩した。溜息とともに天井を仰ぐ。
「──さて、困ったな」
原賢吾が戻ったのは、それから二刻ほどのち、陽も傾きかけた七ツ過ぎであった。手足を濯ぎ、こざっぱりとした身形で礼を執る。
「なんとも言えませんなあ」
と、言った。
自称播州浪人。六尺近い上背と、控えめながら肝の座った青年である。花六軒長屋に居着いてすでに数年。氏素性を知る者はいない。
昨夏、加納久通(角兵衛)より倫太郎の身辺警護を依頼された。以降、付かず離れず近くにある。
「まあ、疑わしいと言えばそうですが、
と、のんびりとした口調だ。
原が通うのは、牛込榎木町の本間道場だ。定町廻り同心、堤清吾の依頼だ。探るのか、見張るのか、それすらわからぬまま、通い続けている。
これまでの関わりから、堤はおのれへ何らかの疑念があるらしい。〈狐〉の一味と疑っているのか、他意があるのか。
「では、原さんが疑わしいと思うのは、どのようなところですか」
「道場の大きさの割に、人の出入りが多いことでしょうか。まあ、あのような町道場には珍しくないでしょう。八代様の武芸奨励もあって、町人までが竹刀を手にする御時世です」
「だが、抹香臭い」
「抹香、ですか」
坊主のように、身体中に抹香染みた浪人がいる。それもひとりふたりではない。
「不思議なことに、その者等は互いに知らぬ振りをして、談笑すらしないのです」
「しかし、同じにおいがする」
「はい」
確かに妙だが、それ以上の話ではない。
「では、儘あることとはどんなことでしょう」
原は頭を掻いた。笑顔になる。
「酒、ですかな。夕刻から、よく振る舞われます。勢いで熱弁をふるう者もおりますが、度が過ぎなければ、本間先生も笑って見過ごしておられるようです」
話題はたわいもない。
「剣術のこと、ご政道のこと。──女のこと」
そういえば、と原が倫太郎を促した。
「ご高弟の一人が、久方ぶりに帰府するそうです。道場で、酒席を設けるそうなので、宜しければご一緒しませんか」
「そうですね」
不必要なことを言う男ではない。
「行きましょう」
「では、お迎えに上がります」
「この後、夕飯を食べていきませんか。お里もじき買物から戻ります」
所用があるので──原はそれだけ言って、向かいの自室へ戻って行った。
(続く)
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