102話 木乃伊とり(続)
「おたね、お客さんだよ!」
母親の声に、伊勢屋のおたねは、
「おたね!」
「はーい! いま行来まーす!」
たぶん、向かいのおふくだ。幼い頃から仲のいい幼馴染で、なんでも話せるたったひとりの相手。
でも、いまは内緒ごとが一つ。昨日もしつこくあれのことを訊かれたけれど、あれは、あたしの虎の子、あたしだけのあのお人との秘めごと。
おたねは心中「きゃー」と叫んで店先へまろび出た。上り口に掛けていたのは、
「篠井里哉さ……ま?」
おたねは、近くの池洲稲荷神社へ案内した。
こじんまりとした境内に、小さな藤棚。花の盛りは遠いものの、その傍で遅咲きの桜が一本、申し訳なさそうに花を散らしていた。
おたねは小さな掛け茶屋に、里哉と並んで腰掛けた。篠井里哉はおそらく一つ、二つ年上で、小柄な若いお武家様だ。鼈甲縁の丸眼鏡を掛けて眉根を寄せ、ぴんと姿勢を正しすと、草餅の皿を床几に置いた。
「おたねさん」
「はい」
「返してください」
直截なもの言いに、おたねは思わず笑顔になった。
「あなたが持ち出したもののことです。あれがないと、……困るのです」
「あ、あたし、なんのことか」
わかりませんと語尾が消えそうになると、里哉は口元を引き締めた。
「咎めようというのではありません。ただ、返してほしいのです。もし、おたねさんが倫太郎様を好いているのであれば」
かっと、首元からこめかみまでが熱くなる。
「どうしてこんなことをしたのですか」
──どうして……?
おたねの心底がざわりと動いた。
里哉は眼鏡の奥から、じっと見つめている。おたねは一寸にじり下がり、ぱくぱくと口を動かした。
「そ、そりゃ、お優しそうだし」
「それから」
「きりっとされていて、お武家様で」
「ほかには」
「お、おふくちゃんの」
「おふくさんの?」
「おふくちゃんのいい人だって、そうふくちゃんが言うから、あたしもうわあって」
「それから?」
「え、あとは……」
真っ白。目を瞬きながら見返すおたねに、里哉はたたみ込むように言った。
「つまり、おたねさんは、おふくさんが好きだから、自分も倫太郎様が好きになった、ということなのですか」
「違います!」
その声量に、参詣客が振り返る。若い娘と若いお武家だ。それがなにやら真剣な面持ちで言い合っている。
里哉は、身を乗り出すように迫ってくる。
「では、どうしてですか」
おふくは泣きたかった。好きや憧れに理由などない。確かにきっかけは、おふくだ。でも、嬉しいのだ。楽しいのだ。毎朝起きて、あれを思いながら、二木倫太郎様を思う。たぶん、ただのご浪人ではないし、たぶん、
これは、あたしだけが知っている、あたしだけの秘密。おふくとだって分け合わないのに。
ほろりと涙が落ちた。
「あ」
ぽろぽろと、おたねの目から水が落ちる。泣きたいわけではないのに涙が止まらない。
「わかりました」
いきなり、里哉が言った。立ち上がり、おたねへ笑いかける。
「申し訳ありませんでした。おたねさんを疑ったのは、私の間違いです。私がこうしてお訪ねして、このような話をしたことは、誰にも言わないでください」
「え?」
訳がわからない。
「返さなくてよいのですか」
「構いません。もう、必要ありませんから」
目をぱちくりしているうちに、篠井里哉は立ち去った。
残されたおたねは、理由がわからぬまま、手付かずの草餅を頬張り、ついでにお参りもしてから伊勢屋へと戻った。
「早かったね」
「何事もなかったかい」
「ううん、大丈夫」
まだまだもの問いたげな父親と母親を振り切って、おたねは奥の座敷へ戻る。あたりの様子を窺いながら、畳を上げ、床板をずらし、あれを──。
「う、うそっ!?」
何もない。
ただ、小柄のような小さな刃物と白い紙片。
──見参 狐
おたねは、金切り声を上げていた。
「里哉さんっ!!」
ものすごい勢いで、福籠屋のおふくが飛び込んで来た。
深川門前町一丁目の花六軒長屋である。
向かい合って朝餉を取っていた倫太郎と里哉ご、何事かと振り返る。
「里哉さん! おたねちゃんに何したのっ!?」
下駄を脱ぎ散らかして、おふくがかけ上がる。
「なにって、私はなにも」
「うそっ! あたしを除け者にしてやっちゃったでしょ!」
里哉は箸と茶碗を持ったまま、尻餅をつくようにのけぞった。
「やっちゃったって、何をですっ!?」
「
「あー、俺が、どうしたって」
ほかほかの香ばしい香りともに、二つの鉢を持った破戒坊主が戸口に立った。葱入りの卵焼きと、醤油で焼いた強飯のようだ。
誰かの腹が鳴る。
「そういえば、おふくさん。朝飯はまだかい」
倫太郎は笑って、皿と箸を差し出した。
(続く)
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