101話 木乃伊とり
「わざわざすまねえな」
やはり、八丁堀の堤清吾である。お堀端は神田鎌倉河岸。御城に最も近い荷揚地には問屋が建ち並び、いつも大勢の人通りで賑わっていた。その一角、酒問屋豊島屋の片見世であった。
二木倫太郎は縫うように通りを泳ぎ渡り、葦簀囲いの立ち飲み屋をにこにこと眺め渡す。創業百五十年余の酒問屋は、格安で下り酒が飲めるとあって、昼日中から大賑わいだった。
「ちょいと付き合って欲しくてな」
堤は猪口を伏せ、促して店を後にする。そのまま横道一本を折れ、見覚えのある通りへ出た。
ああ、と倫太郎が頷く。
「燿太郎さん、ですね」
燿太郎とは、女医者お凛の四番目の兄で、筋金入りの変わり者だ。神童の名を恣にしたものの、あっさり市井に沈んで好きな学問に明け暮れている。
堤は、どうもこの燿太郎が苦手らしい。
「今日はどうしたのですか」
「知り合いの薬屋から紹介されたんだがな」
紹介もなにも、これまで事件の解決に、知恵を借りたこともあった。
「妙なものを手に入れたんだが、正体がわからなくてな」
手にした印籠を振るう。砂のような音がする。
「何ですか」
「薬の一種らしい。臭くてたまらん」
その臭気に、思わず顔を顰める。それを堤は笑った。
「猫屋新道の先生に聞けば、何かわかるらしい」
医者になり損ねたこともあって、燿太郎は本草学に通じている。伊勢町の和薬種改会所に呼ばれ、薬種の鑑定に関わることもあるほどだ。
と、倫太郎の手中へ、懐紙包みが押し込まれた。
「お里坊へ、土産だ」
中には白い饅頭が三つ。
「虎屋高林だそうだ。まあ、美味い」
「お里が喜びます」
堤とは、そんな男でもある。
さて、佐々燿太郎の住居は、家族持ちの番頭が住むような借家だ。一人で住むには広いが、所狭しとわけのわからぬものが詰まっている。
「燿太郎さん、ご在宅ですか」
引き違い戸の奥へ遠慮なく声をかけると、「はーい」と若い女の声で応えがあった。
「あら、二木様」
いらっしゃいまし、と膝をつく。羽織芸者の勝弥ことお勝だ。燿太郎とお凛兄妹の幼馴染で、武家の出らしい背筋の通った美形だ。
「どうぞ叱ってやってくださいまし。もう今日で十日。寝床から一歩も出てきやしない。あたしがこうやって来なかったらどうしているのか。あら、堤様」
と、しなり。
「やあ、いらっしゃい」
書斎兼寝所兼居間に鎮座する、万年床からにゅっと手が出て、ひらひら二人を手招いた。
「一体、どうしたのですか」
病ではないだろう。燿太郎の実家は高名な町医者であったし、本人も血に卒倒しなければ、家業に就いていたはずだ。
「ふかさ」
「ふか、ですか」
鷄の卵を温めているのだと言う。
「鳥はね、いっとう最初に見たものを親だと思うらしいよ。だから、本当にそうなのか試してみたくてね」
なにがきっかけなのか、おのれで温め、孵るその瞬間まで立ち会いたいらしい。
「そんなわけで、私は忙しいから後にしておくれな」
「燿ちゃん。お二人ともわざわざ訪ねてくださったのよ」
「だから、いま手が離せないのさあ。もう少しでうちのこたちが生まれるんだから。お勝だって、もうお座敷の支度をする時刻だろう。さっさとお帰りな」
手首以上、一向に出てこない。
お勝は肩をすくめた。
「はいはい。今日は帰りますよ。また、明日ね」
「いいよお、もう来なくて」
はいはいと去なしながら、お勝は帰っていった。それでも布団の中から、不平が続く。
倫太郎は枕元らしき辺りに座り、顔を近づけた。
「ね、燿太郎さん。謎解きをしませんか」
伊勢屋のおたねは、今朝も元気だ。
寝床で「ううん」と手足を伸ばすと、飯炊きの匂いにとびきりの笑顔になる。
「ううう、さぶっ」
八重桜の時分とはいえ、朝晩は冷える。寒がりのおたねにとって、「春」はまだまだ遠いのだ。
(大根とお揚げね)
熱々の味噌汁を思うと、途端、腹が鳴った。
おたねは、ちゃちゃっと身支度をして、父親と母親、通いのおさきの所在を確かめた。朝は誰でも大忙しだ。
おたねはどこからか職人が使うような道具を出すと、畳の縁に突き立て、えいっとばかりに持ち上げた。板目の、丁度節抜けした穴に指を入れ、床板をずらす。
「おはよう、倫太郎さま」
柿渋紙に包まれたそれは、三尺ほど。細長いなにかを愛おしそうに眺め、ほっと息をつく。
「おたね、支度を手伝っておくれ!」
「はーい、おっかさん。いま行く! 今朝のお菜はなにー?!」
元通りに畳を戻し、手の汚れを前垂れで拭くと、おたねはいそいそと朝餉へ向かった。
原賢吾が牛込榎木町の本間道場を訪ね、すでにひと月。今日も午過ぎから稽古を眺めていた。
自ら竹刀を手にすることはない。隅の方へ座り、「ほう」だの「ああ」だの漏らしては、日がな一日見物しているのだ。
「無礼な」
と、直参の子弟が眉を顰めたが、特に出しゃばるでもなく空気のような佇まいに、いつしか気にする者はいなくなった。
「原様はかなりの遣い手だと、先生が申されていました」
春とはいえ、板間は冷える。少年は、熱い白湯を差し出した。
鏑木景之進。今年十五になったばかりだ。幼い頃より、父親の知己である本間道場へ入門し、稽古に励んできたという。すでに背丈は伸びきっていたが、原へ向ける目は童のそれだ。
「頂こう」
二人は、並んで稽古を見物する。
「景之進殿、こちらでは直参、町人問わず、門弟となれるのですな」
景之進は、嬉しそうに頷いた。
「はい。本間先生は、修養の心に身分は関わりないと申されます」
「嫌がる者はいないのですか」
牛込辺りは、一朝有事の際、徳川家の先鋒となる御先手組の本拠地だ。
「そのようなお方は、すぐに辞めておしまいになります」
「なるほど」
「来たい者が来れば良いと、先生はそう申されるのです」
「確かに」
景之進は、思い切ったように言った。
「原様は、稽古はしないのですか」
「このような打ち込み稽古はしたことがない」
「では、私がお教えします!」
原は穏やかに笑んで首肯したが、腰を上げることなく、十人余が打ち合う姿を眺めていた。
(続く)
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