100話 導火線
「ああ、これは恐らく塩硝でございましょう」
日本橋本町の薬種問屋、近江屋である。主人の市左衛門は、受け取った印籠を開けるなり、そう言った。
近江屋は、徳川家と共に移転した三河商人だ。七代目は薬種組合二十四軒に属し、
その店先に南町奉行所の定町廻り同心、堤清吾はいた。
「塩硝とは火薬の原料だろう。これほど臭うものなのか。便所のようだぞ」
近江屋は破顔した。人柄の良さそうな明るい笑顔だ。年は、堤とそれほど変わらぬ辺りだろう。
「実は堤様、珍しい菓子が届いております。奥で一服差し上げたいのですが」
「せっかくだ。貰おう」
奥の居間へ入るや否や、堤はどかりと腰を下ろした。
「で、何だ。店先じゃ、話せないことか」
堤が持ち込んだのは、御用聞きの留蔵が手に入れた、例の夜逃げした旅芸人一家の置き土産だ。あまりの臭気に袋ごと函に収め、小さな欠片を拾って旧知の薬屋を尋ねたのだ。
近江屋市左衛門は、茶菓を運んできた女中を下がらせると堤の前へ座り、改めて懐紙へ開けた。
「恐らくだが、加賀藩五箇山産の塩硝だろうな」
「五箇山とは、どの辺りだ」
「越中も、飛騨の
「そりゃ、余程辺鄙な所だな。だが、塩硝とは、そもそも舶来の品ではないのか」
近江屋は、真顔で頷いた。そうしていると、寺子屋の師匠のようだ。
「質の良いものは、確かに渡来物だ。だが、日本にもいくつか産地がある。何にしても、おいそれと市中で目にするものではない」
「御禁制か」
「まあ、それに近いだろう」
近江屋は矢立を取り出すと、さらりと書付けた。
「俺の紹介だと言って、この男を訪ねてみるといい。役に立つ」
そこに記されていた名に、わずかに眉を寄せる。
「邪魔したな、三郎。助かった」
「ひとつ貸しだ。いつでも来いと言っているだろう。お前の好きな菓子を、たんと食わせてやる」
「生憎、俺は辛党でな。だが、
町家の女婿となった幼馴染へ返し、堤は白い饅頭をさらに三つ、懐紙に包んで懐へ入れた。
「これが、おふくちゃん
福籠屋のおふくが広げたのは、半紙ほどの絵図だ。
「ここが炊事場。表の店先から、土間を通って裏へ抜けられる」
刀を盗み返すのであれぼ、周到な計画がいる。正体がバレては元も子もない。失敗は許されなかった。一寸も、一厘すら。
おふくと額を突き合わせているのは、無論、真慧だ。
処は、花六軒長屋の倫太郎の室。ちなみに、主人は出掛けて留守だ。
図面といっても、落書きのようなものだった。もともと伊勢屋は間口の狭い小店であるし、福籠屋の向かい、日光街道の裏道を入った足袋屋である。旅装一式と古着、小間物を商う店の奥は、三間ほどの住居しかない。
おふくが指す図には、人らしき丸と棒。死んだ魚のように三つ並んで、さらに炊事場に小さいのがひとつ。
「伊勢屋のおじさんはここ。おたねちゃんとおばさんは、ここで寝てるはず。これは奉公人なんだけど、通いの下働きの子だから日暮れには帰る」
「つまり、アレはこの三間のうちにある、と言うんだな」
真慧は、並んだ魚を指差した。
「たぶん。おたねちゃんにしかわからないとこに、隠してると思う」
「隠す処、あるのかよ」
真慧が、あからさまに眉を顰めた。
「あるわよ! 真慧さんだって、ヘソクリ銀ぐらい隠してるでしょ」
「宵越しの銭は持たねえ質なんでなあ」
じろりと睨む。
「で、どうする。これはかなり厄介なヤマだぞ。だが、おふく坊も篠井の一党だ。忍びの極意で、盗人の真似なんぞ朝飯前だろう」
「もちろん。やってやろうじゃないの」
にやりと笑み交わす。
「いい加減にしてください!!」
篠井里哉は見取図をひっくり返すと、あれよという間に破り捨てた。
「やだっ、里哉さん!」
「連れねえなあ。ここからが面白いんだぞ」
「
「なら、おまえさんに、ならいいか」
「そんなこと、言ってません!」
おふくが、腕組みしたまま頷く。
「確かに、倫太郎様がやることじゃないわね。なら、里哉さんはどう? 里で鍛錬は受けてるはずだから……」
「泥棒はだめです! 絶対、だめ! 倫太郎様がお留守なのに、勝手に決めないでください!」
倫太郎が出掛けて一刻あまり。その間、里哉はひとり、奔流を押しとどめる堤塘の気分である。
「いや、そいつはいい案かもしれねえな」
真慧は目を細め、里哉を頭のてっぺんから先まで眺め下ろした。
「な、なんですか」
「やられたら、やり返す。泣き寝入りは性に合わねえ」
里哉は、嫌な予感しかしない。
真慧は、改めて気づいたように、空の座布団を見遣った。
「そういや、あいつ。どこ行ったんだ」
(続く)
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