99話 あまつをとめ
「倫太郎さまっ!」
朝から、雲ひとつない晴天だ。
篠井里哉は汚れ物と盥を抱え、さあ井戸端へと腰高障子に手を掛けた、その時であった。
「倫太郎様! 大変です!!」
「うわっ!」
盥と散らばる汚れ物を、里哉はあわててかき集める。
「おふくさん、ひと声をかけてください!」
「水!」
額に玉のように汗をかいて、おふくはよろよろと上り口に座り込んだ。
「里哉さん、お水ちょうだい!」
差し出した茶碗を続けて二杯、一気に飲み干した。
「どうしたんだい、おふくさん」
手拭いを差し出しながら、二木倫太郎が問い掛ける。
「お刀です!」
「かたな?」
「お刀、ありますか!」
倫太郎と里哉は刀架へ目を遣り、顔を見合わせた。と、
「ま、まさかっ!?」
はたと気づいた里哉が、奥の箪笥へ飛びついた。次々と抽斗を引き出し、荷物を掻き回す。
「ない! ないですっ! 倫太郎様、あ、ありません!! あの御刀が見当たりませんっ!!」
今朝早くのことだ。日本橋
「あたし、すんごい秘密、見つけちゃったのっ」
店先は、出立する客でごった返していた。そこへおたねは駆け寄って、おふくを見つけるやいなや、店の外まで引き出したのだ。まんまるな顔に満面の笑みを浮かべ、心なしか鼻息も荒い。朝が苦手なおたねにとって、極々珍しいことだった。
おふくは昨夜から、団体客の応対で長屋から手伝いに戻っていた。母のお登勢を窺いつつ、
「秘密って、なに?」
小声で尋ねた。
「すんごいの」
「おふく、何やってんの!」
「いま、行きます!」
「おふくちゃん!」
「あとで行くから、お店で待ってて」
向かいの伊勢屋も朝立ちの客を目当てに、すでに大戸を上げている。
「あん、おふくちゃん。背中押さないでよ」
あんあん言いながら押し戻し、ようやくおふくが伊勢屋を訪ねたのは、それから半刻あまり後であった。
おたねは、店先で足踏みをするように待っていた。
「こっち!」
おふくの手を取っていっとう奥へ連れて行くと、障子戸を立てきり、六畳座敷の真ん中に額を付けるようにして踞る。そうして、聞こえないほど声を抑えて、
「これ、見て」
と、抱えていた包みを広げた。
現れたのは、町方に不似合いな刀。小刀というか脇差というか、どちらにせよ、おたねが持つものではない。地味ながら立派な拵の、由緒ありげな一振りだった。
「あんた、いったいそんなものどうしたのっ!?」
「しっ、おっかさんに聞こえるから。それより、ここ見て」
音を立てぬようにゆっくり返し、おたねが指差した先には──。
「こ、これっ!?」
「うふふ」
「うふふって、あんた」
「見つけちゃったの」
「どこでっ?!」
「うふふん」
手を伸ばそうとしたおふくの前で、くるくると布に巻き戻す。
「おふくちゃんのよく知ってる、と、こ」
「さ、さあ」
おふくは先回りしたいのを抑え、首を傾げて見せる。
すると、おたねの鼻腔が膨らんだ。
「あのね。実は、おふくちゃんの長屋の倫太郎さま」
包みを抱きしめ、ほうと吐息をつく。
「倫太郎さまがね、この間、あたしに下さったの!」
「はああっ!?」
叫びそうになって、おふくは口を押さえた。
「あたしびっくりよー。倫太郎さまが、例のご落胤の若様でー、しかも義賊〝閻魔の狐〟だなんて、あたし、口が裂けても、誰にも、一言だってもらさない。秘密を教えてくださって、このお刀を授けて下さったお気持ちに、あたし、精一杯応えなくっちゃ!!」
「あの、おたねちゃん。それ、どういうこと?」
おたねは包みを愛惜しげに抱きしめ、上目遣いにおふくを見遣った。頬が上気して、目が潤んでいる。
「あたしね、倫太郎さまと
「──つまり、なんだ」
と、法体の
「例の貰った刀が無くなった、てことだな」
「盗られたんです!」
噛み付く里哉は、眼中にない。
「そのおたねという娘と、おまえ、いつそんなに親しくなったんだ」
「倫太郎様は、親しくなんかありません!」
「ああ、わかったから、お里坊は少し静かにしていてくれ」
「そうよ、里哉さん。落ち着いて」
おふくにまで言われ、むっと黙る。
「で、いつ無くなったんだ」
「気づいたのは、つい先程だ。おふくさんから話を聞かなかったら、今でも知らなかったろう。毎日眺めているような物でもないから、いつかは正直わからない」
「私がちゃんと見ていなかったからです」
里哉の顔は、壁のように真っ白だ。
刀といっても、ただの刀ではない。高価なものではあったが、それよりも、
「年末に加納の爺さんから貰った、例のアレだろ。金ぴかの紋が付いた脇差」
御側御用取次である加納久道を通し、倫太郎へ下賜された品だ。それを不注意から紛失したとなれば、
「そりゃ、切腹ものだな」
真慧は、鼻を咬みながら言った。最近、春先になると目と鼻の調子が悪い。
「真慧!」
「まあ、返せとか、見せろとか言わないだろうから、無くなろうか売ろうがわからないとは思うがな」
「そういう問題じゃありません!」
「お里、おまえの責任ではないよ。もし責任を問うなら、私だから」
「でも、私は倫太郎様の侍者です。身の回りに気をつけるのが、私の役目です」
「ああ、わかった、わかった。腹を切りたきゃ、切ればいいが、それよりもどうやって取り戻す」
「正直に伝えて、返してもらったらどうでしょう」
真慧は目を細め、懐手のまま胸を反らす。
「おまえ、学問はできるが、馬……」
「そこまでだ、真慧」
倫太郎が遮って、おふくへ問う。
「おたねさんは、口が堅い方ですか」
おふくは、思いっきり頭を振った。
「すんごいいい子なんだけど、なんていうか、夢見るあまつおとめというか、枠しかない笊っていうか、底の抜けたお釜っていうか……」
「なんだその、あまつおとめってのは」
揶揄う口調に、おふくがきれいな眉を立てる。
「もし倫太郎様が直接返せって言ったら、それを含めて、あの子、みんなに言いふらすと思います」
「そうしたら、どうなるか考えないのか、そのおたねって奴は」
真慧はすっかり呆れ顔だ。
義賊だとしても、盗人は極刑だ。それがしかも、噂通り将軍様の御落胤ともなれば、関わったおたねもややこしいことになるだろう。
「いっそのこと、盗まれましたと訴えるか」
「そんなことをしたら、おたねちゃんが!」
死罪だ。十両盗めば、命がないご時勢である。しかも、それが──以下省略。
真慧は一同を見回し、指をたて、招く。顔を寄せると、
「なら、盗み返そうぜ」
「真慧さん!!」
(続く)
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