第七章 刀騒動

98話 春、ふたたび

 さて、春爛漫である。とんとんと季節が進み、弥生となった。


「一年、ですね」

「一年だねえ」


 二木倫太郎は篠井里哉と並び、桜を見上げていた。花六軒長屋の北、菜葉畑の真ん中だ。桜の大樹が満開である。

 覗く青空へ目を細め、春気を吸い込む。


「来年も皆さんと、こうやってお花見をしたいですね、倫太郎様」

「ああ、そうだね」

「ほら、里哉さん。早く来て!」


 緋毛氈を抱えたおふくが、里哉をさらう。指図されながら座を整えていく姿が、なんとも微笑ましい。甲之助──真慧しんねが、建屋の方から大鍋を下げてやって来た。


「倫太郎、運ぶの手伝え!」

「いやあ、二木殿が参られてから一年とは、早いものですなあ」


 八卦見の小川陽堂は、すでに赤ら顔だ。その横で原賢吾が、黙々と湯呑みを含んでいる。女医師のお凛は二の腕まる出しで、頭を掻きながらやって来た。その後から金魚の糞よろしく、いつものように小石川療養所の医師、森島四郎がついて来る。

 その姿に、倫太郎は心底ほっとする。


「夕べ、急患があってなー」


 がりがりと生え際を掻きながら、お凛は毛氈にごろりと寝転んだ。

「おい、邪魔だ。踏むぞ」と、真慧。

「踏むなら、踏んでみろ」

 余程眠いのか、ごにょごにょ言いながら、すぐに寝息をかき始めた。

「嫁入り前だろうが」

 真慧は優しい目をして、おのれの羽織を掛けてやる。心なしか、森島四郎が面白くなさそうだ。

 おふくが取り分け、真慧の力作を配っていく。蒲鉾、卵焼き、強飯は醤油で焼いて海苔を巻いてある。誰が持ち込んだのか、薦被りの酒樽が一斗。


「春、うららかなり。嗚呼、善哉、善哉」


 大家の大源寺の住持が、いつの間にか混じって、般若湯を浴びていた。


 よい天気だ。過ぎるのが惜しい。

 倫太郎はおのれの盃を置き、首を巡らせる。

 集う。笑う。喋り、よく食べ、よく飲む。なにものにも代え難い一日。桜と、その間に見える晴れ渡った空。

 そして、一陣の風。

 




「おや、あんたは、おふくさんの」

「はいっ、福籠屋ふくろうやさんの向かいの、伊勢屋のおたねですぅ」


 同日同時、花六軒長屋の木戸口だ。木戸番の才助が、うろうろしている若い娘へ声をかけた。十六、七だが、なかなかにふくよかで貫禄がある。


「ああ、おふくさんなら、裏の畠だよ。皆さまおそろいで花見をしていなさるから、その奥から行っておくんなさい」

「ありがと、おじさん!」


 おたねは、鞠のようにこらころと駆けて行った。意外なほど身のこなしが軽い。

 才助は奥へ行くのを見送って、やれやれと真慧に渡された花見弁当を広げた。


 さて、おたねである。

 長屋の北側へ、左手へ黒板塀に沿って曲がったものの、そこで木戸口を覗った。下駄を脱いで懐へ入れると、そっと戻る。そろそろと腰高障子を開き、中へ滑り込んだ。


 手拭いで足の裏を拭って、座敷へ上がる。

「よいしょっと、ごめんなさいね」

 口中で呟き、ぐるりと見回す。と言っても狭い二階二間の長屋である。おたねは、簡素な調度のなかでも、使い古した箪笥の前に立つ。


「うーん」

 金具に手を掛け、よいしょと引っ張る。小袖や下着や手拭いなどが入るなかを、おたねは上から順番に開けていった。


「あら」

 絹地の風呂敷で包まれた箱だ。おたねはきょろきょろと周りを見回し、人気がないのを確かめてから、取り出した。

 大きさの割に重い。軽く振ってみる。


「お刀かしら」

 包みを解くと、立派な塗り箱が出てきた。手指を腰の辺りで拭ってから、おたねは蓋を取る。

 山吹色の絹地。包んであるのは、脇差か短刀か。

 おたねは、指先で布を摘んで、少しづつ開いていった。


──まあ。

 梨地の鞘の短刀だ。地味な拵だが、見覚えのある紋が付いている。恐らくは、広い世間に知らぬ者はいない御紋のひとつ。

 おたねは、箱を床に置いて、まじまじと見つめた。


──まさか、ね。

 幾度か目を瞬く。首を傾げる。

 やがて、目を笑み細め、満月のような笑顔となった。




(続く)






 






 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る