幕間(七)

「お里。父上とは、どのようなだ」


 昔、紀州の篠井の里で、小さい従弟へ尋ねたことがある。二人で草地に座り、習った漢籍を復習っていた時だ。月に数日、法体の師匠先生が泊まり込みでやって来て、倫太郎らへ学問を講じた。


 里哉は小首を傾げた。聡い子で、倫太郎のという言葉に、少し考え込む。

「はい。父上は……、決して敵わぬでございます」


「敵わぬもの、か」

「はい。わたしは音哉おとにも敵いませんが、父上は、あの護摩壇山のように、お里の前に聳えていて、いつも天から見下ろしているような……」


 里哉は、語尾を濁した。その二子の弟音哉は、今日は無理を言って猪狩りについて行った。

 兄の里哉は──。


「わたしは、いきものをこの手で殺したくありません」

「ああ、私もだよ」


 慰めもあってそう返すと、里哉は細い眉を立てて怒った。


「倫太郎様は、武門の棟梁たるべきお生まれです。そんな」

「そんな?」


 倫太郎は笑った。


「私はここで、お里達とともに暮らしていればよいのだよ。──お里は嫌かい」

「まさか」


 見開いた目は、嬉しさに輝いている。


「少し心配だったのです。わたしは、倫太郎様のお側にいたいので、いつか、倫太郎様が遠くへ行ってしまうのではないかと思って。本当はこんなこと考えたらいけないのですが、父上にも、たぶん、叱られるだろうし」

「遠く? 例えば?」

「そうですね」


 里哉は気を取り直し、遠くを窺うように青空を見上げる。


「例えば、そうですね。江戸! 有名な学問所へ行ってみたいです。それから書物を読みたい!」

「確かに、江戸は遠いね」


 倫太郎は、紀州までの道中を思い浮かべる。果てしなく続く道。街道は巻き終わらぬ反物のようで、どこまでもどこまでも続くのだ。あの道の先に何があるのか。どこまで続くのか。その先を見てみたい──と思う。行ってみたい──と思う。海原の水平線しか見えない岬に立って、さらにその向こうに何があるのか、どのような国があって、どんな人々が住んでいるのか。いつか、必ず確かめてみたい──と、夢に描く。


(かなうのであれば……)


「倫太郎様?」

「そうだね。確かにお里の父上は、護摩壇山のようだ。それから、もしかしたら船の錨のようなものでもあるかもしれないな」

「錨、ですか」


 ぱっと、里哉が満面の笑顔になる。


「篠井は、もともと海賊……水軍だったと聞いています。だから倫太郎様も」


 おのれより、頭ひとつ低い従弟を見遣る。里哉の父、篠井児次郎は母方の叔父だった。死んだと思っていた母は、生きているのだと言う。篠井の家系は海賊で、倫太郎の父親は──。


──気を付けろ。命はひとつだぞ!


 幼い頃、松の枝から池に落ちた時、救い上げてくれた大きな腕があった。あれが、たぶん──。


「倫太郎様?」


 おのれの父と母に、何があるのか。何があったのか。なぜおのれは里に隠れ住み、息を殺しているのか。いつまでこうしているのか。おのれの未来に、なにが待っているのか。あの空の向こうへ、飛び立てる時はくるのか。


 鳥笛が鳴った。里哉が耳を澄ます。


「音たちです。捕まえたそうです。今夜は猪鍋です!」


 二人で決めた符牒があるのか、里哉も懐から竹の小さな駒鳥こま笛を出して、軽やかに吹き返した。


「食べるのはいいのかい」

 いつものように揶揄うと、里哉は笑い声をたてて駆け出した。

「無駄にはできません」


 春から初夏へと変わる風だ。

 倫太郎は、駆け下って行く里哉を見送りながら、流れ行く雲へ、鬱蒼とした木々の間を越えはるか東方へと思いを馳せた。





(第七章へと続く)









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