97話 密告
御用聞きの留蔵が、その
「なんですか、旦那。そのみっともねえ格好は」
首の下に市松取りの風呂敷を取り回し、濡れ縁に胡座をかいて屈んでいた。吉次の差し出す鏡をのぞき込みながら、毛抜きを手に眉を顰めている。
「髪結に行き損じたのさ。仕方ねえだろ。てめえのように、手先の器用な女房もいねえんだからな」
留蔵がちらりと吉次を見やると、綺麗な顔にいつもの笑みを浮かべ、大仰に肩をすくめた。
「なあ、伊織さんよお。ここのあたり、抜いてくれねえか」
「ご自分でどうぞ」
言って、鏡を留蔵へ押しつけると、台所へ消える。
「つれねえなあ」
「ああ、もう見てらんねえや」
「誤解すんなよ。伊織さんは、弟みてえなもんだ」
「そりゃ、わかってますがね」
八丁堀の役宅へは、滅多に帰らない。
「で、なんだい。こんな時分に急いで来るほどの山かい。仕込みに忙しいだろうに、お鯉が怒っちまわねえか」
留蔵は、堤の横に座り込んだ。
「いや、そのお鯉が知らしてくれたんですがね」
深川下元町で、小さな居酒屋を営んでいる。お鯉の愛嬌と、ひと手間かけたお菜が人気だ。日が暮れてからは留蔵も手伝って、なかなかに繁盛していた。
「ほら、春先の狐面の瓦版の一件」
堤が手を止めた。
「旦那が囃子方から当たれと言いなすったんで、あいつも客の話にきき耳を立てていたんでさ」
昨晩のことだ。大工とその連れが、姿を消した芸人一家の話を肴にしていた。旅流れが江戸に居ついたらしく、四人家族のひとりが、背の伸びきらぬ小男だというのだ。
──ほんとは
気持ちよく酒が入り、男の声は大きい。
──そのまんま、さ。
──そのまんまとは、なんだい。
連れも同業らしく、道具箱を傍に置いていた。
──飯の最中だったのか、椀に粥を盛ってそれが四つ。目刺しが四尾。箸もそろえ、湯呑みやらなにやらも、箱膳の脇にきれいに並べてあるんだ。少ねえ布団も隅に畳んで重ね、まあ、きれいなもんだった。たまったほこりは別だかな。
──つまり、あれだな。どろん。
──ああ、どろん、だ。一家四人がどろんと消えちまった。夜逃げか神隠しかって。
桑原桑原と、大工らは首をすくめていたらしい。
「で、どこだい。その神隠しがあった長屋は」
留蔵は、にんまりと鬼瓦のような顔を緩めた。
「長谷川町の三光稲荷辺りの裏長屋って云うんで、来る前にちょっと寄ってきたんでさ」
「で、どうだ」
「ひでえ裏長屋でさあ。で、差配(世話役)のとっつぁんが言うには、居たのはほんのひと月あまりで、近所とも、世間話ひとつもしねえ妙な奴らだったそうで」
留蔵の口元は、むずむずと落ち着かない。
「それで、なんだ。留蔵親分の本領発揮はこれからか」
面立ちはいかついが、滅法人好きするのが留蔵の得意だ。
「さすがは旦那だ。井戸端の
と、手招きする仕草だ。
「で、たんまり小銭を握らせたら向かいの婆あ、消えちまった晩、戌の刻過ぎに客が来たって言うんでさ。どうも様子が妙なんで、戸の隙間からそっと覗いてたって言うんですがね。一家四人、そのまんま、なんにも持たずに、その客について行っちまったって言うんでさ」
「つまり、夜逃げか」
話が見えなかった。
「それがね、旦那。その客ってえのが、ひょろりとした若い男で、祭でもないのに、顔に白いお狐様の面をつけていたって、そう言うんで」
留蔵は、上目がちに堤を見遣る。
「また、狐かい」
「で、それっきり、どろん」
「つまり」と、堤清吾は風呂敷を脱いではたいた。
「結局は、振り出しに戻ったってわけだな」
「ま、そうなんですがね、旦那」
留蔵は懐から取り出したものを、堤の膝元へ置く。くたびれ汚れた布袋だ。
「太え婆あで、そのあと、こっそり向かいに入り込んだらしいんで。火の元が心配でとかなんとか言ってますがね。そしたら、こいつが落ちてたって言うんです。ま、大方、嘘さあね」
堤は手に取ると、紐をゆるめ、途端、顔を顰めた。
「こりゃ、ひでえにおいだ」
(続く)
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