96話 痕跡を追う
手土産の菓子折を篠井里哉へ渡し、倫太郎へ丁寧に頭を下げた。
「ご報告が遅くなりました」
「ご苦労だったね。何かわかったのかい」
「はい」
頷くお登勢に、心なしか里哉の身体が強張る。
倫太郎からの依頼は三つ。
ひとつめは、
二つめは、倫太郎と里哉の偽者だ。よろず屋吉次が海賊橋で見かけた、小松町の裏長屋に住まう二人組の一件だ。
「里哉」を名乗り瓜二つであることから、こちらこそが音哉本人であろうが、倫太郎の名と姿を騙り、何をしようとしているのか。
そうして、さらにもう一つ。牛込榎木町の本間道場主、本間平右衛門である。八丁堀の堤清吾に頼まれ、原賢吾と尋ねた。
堤は〈
「──先ずは、本間様の一件でございます」
里哉の肩から力が抜ける。
「ご先代まで、西国で仕官されておいでのようでした。しかし主家が改易となり、ご一族ともども出府された
「目先のきく人物のようだね」
「はい。移転されたのちは近隣のお旗本ばかりか、町人までへ門戸を開き、剣術以外、手習、算術も教えているそうでございます。めっぽう評判の良いお人柄で、ご門弟もお行儀の良い方ばかりとか」
「なるほど」
多くの浪人が困窮に喘ぐ中で、ごく稀な例だろう。武芸のみならず、商人のような才覚が必要となる。言葉を交わした印象どおり、世慣れた
「では、私とお里の偽者の一件はどうだい」
倫太郎の口調は、どこか愉しげだ。
「すでにもぬけの殻でございました」
江戸篠井の頭領、児次郎の手の者が動いた。一度は音哉らしき人物を認めたが、気配を察したか、ふつりと消えてしまった。
「店賃は前払いとなっておりました。家財道具もそのまま手付かずで、時折、近所の者が掃除に入るそうでございます。長屋の者たちは口を揃えて」
と、お登勢は文字どおり困り顔になった。
「二木様は将軍様のご落胤。しかも、世直し義賊の閻魔の狐。お役人に追われ、父君のお為もあって、仕方なく姿を隠されたに違いない──と」
「音は、何を考えているんだ」
里哉はひとりごちた。
昨秋、養家を出奔した弟、音哉と三年ぶりに再会した。
ある人に助けられ、その人に仕えているのだと言った。
では、そのお方のために盗賊となって世を騒がし、今度は倫太郎とおのれを騙るというのか。
──一体誰に仕えているんだ。
「ならば、
お登勢は頷いた。
「人相に特徴がある囃し方からあたったところ、旅回りの芸人一家とすぐにわかりました。住居の長屋を訪ねてみたところ、やはりもぬけの殻で、いく先を知る者は誰もおりませんでした」
生国はおろか、名さえわからない。互いに「笛さん」「太鼓さん」などと呼び合っていたらしく、細かい人相はすでに曖昧だ。
「叔父上は、見当をつけておいでかい」
「決して御自ら動かぬようにとの仰せです」
「そうだね」
お登勢は困ったように、傍らの里哉へ頷きかける。
「立場は弁える」
満面の笑顔に、しかし、二人は首を振った。
出立の朝は雨となった。
唐紙障子の向こう、枯山水の庭がしとど濡れそぼっている。広縁に囲まれた二間続きの座敷は、一筋の渡り廊下で母家へ繋ぐのみだ。
実のところ、体のいい軟禁ではないか── 松平
江戸
東照神君の血を引く、尾張徳川家に生を受けた。四代当主となった異母兄
その明君と誉れ高い兄は、何者かに毒殺された。幼い七代将軍の後見を、紀州家と争っていた時分だ。藩邸近くを、紀州の間者がうろついていたとも聞く。
聡明で、武芸に優れた兄だった。将軍の後見となり、何れは兄こそが武門の棟梁となり、徳川家を盛り立てていくはずだった。
それが突然血を吐き、悶絶死した。
結果、紀州の吉宗が後見となり、八代将軍を継いだ。末弟の宗春は兄の恨みを忘れ、吉宗に媚び諂って可愛がられている。憤怒のあまり老職に訴えたおのれは、「狂躁の行いあり」とこの有様だ。
「殿様」
敷居際で手を突いていた少年が、顔を上げた。害のなさそうな優しげな面立ちだ。髪は結わず、ゆるく一括りにしている。武家か町人か。凛と伸ばした背と、たじろがぬ眼差しに興を覚え、道端で拾った。出自は、その後に知った。だから、駒にした。みずから進んで為った。
そして、三年。
「旅は如何であった」
にこりと笑んで答える。
「楽しゅうございました。おのれの知る世というものが、いかに狭く浅いものか、常に目を拓かれる心地でございました」
「ふん」
「及第でございますか」
「兄とは、雲泥の差だの」
「雲泥ゆえ、その通りでございます。しかし、殿様は兄の里哉に会ったことはございますまい」
非の打ちどころのない兄、というものは知っている。
「それで、江戸へ戻るか」
「はい。手札が揃ってまいりました。そろそろかと存じます」
「俺は、動けぬ」
「殿様は、動かぬことが肝要です。すべては我等にお任せになり、高みの見物をしていてくださいませ。それがお望みである、御家安泰の秘訣にございます」
「怯懦な振る舞いは、性に合わん」
「まだ仰いまするか」
篠井音哉は、呆れたように背を伸ばした。
「駒には、それぞれ役割がございます」
通温は、恐れを知らぬ目を見返す。
「殿様に拾って頂かねば、野田れ死んだ命でございます。しかし、無用に捨てる気は毛頭ございません」
「恩義は不要」
「無論でございます」
よほど傲岸に喉を晒す。
「これは〝正義〟でございましょう」
通温は笑んだ。
「よいか、瀧七郎右衛門から目を離すな。瀧は……備前屋はおのが思惑で動くぞ」
「心得ております」
音哉は距離を詰めると、脇息にある通温の手にふれた。
「お別れでございます」
名残の氷雨が降る。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます