96話 痕跡を追う

 福籠ふくろう屋のお登勢が花六軒長屋へ訪ねてきたのは、二月も末となった午下りであった。

 手土産の菓子折を篠井里哉へ渡し、倫太郎へ丁寧に頭を下げた。


「ご報告が遅くなりました」

「ご苦労だったね。何かわかったのかい」

「はい」

 頷くお登勢に、心なしか里哉の身体が強張る。


 倫太郎からの依頼は三つ。

 ひとつめは、瓦版よみうり売りの行方だ。正月早々市中を練り歩き、義賊「閻魔の狐」がご落胤だと囃し立て、消えた。どこの誰なのか。〈狐〉──里哉の弟、篠井音哉と関わりがあるのか。


 二つめは、倫太郎と里哉の偽者だ。よろず屋吉次が海賊橋で見かけた、小松町の裏長屋に住まう二人組の一件だ。

 「里哉」を名乗り瓜二つであることから、こちらこそが音哉本人であろうが、倫太郎の名と姿を騙り、何を


 そうして、さらにもう一つ。牛込榎木町の本間道場主、本間平右衛門である。八丁堀の堤清吾に頼まれ、原賢吾と尋ねた。

 堤は〈音哉〉、を追う上で欠かせない。知らず使われるのでは、後手に回る。堤の意図が奈辺にあるのか、それを承知しておきたかった。


「──先ずは、本間様の一件でございます」

 里哉の肩から力が抜ける。

「ご先代まで、西国で仕官されておいでのようでした。しかし主家が改易となり、ご一族ともども出府されたよしにございます。国許では代々御指南役であったことから町道場を構え、平右衛門様が引き継がれたのちには門弟も増えて、昨年、牛込へ引っ越したばかりだそうでございます」

「目先のきく人物のようだね」

「はい。移転されたのちは近隣のお旗本ばかりか、町人までへ門戸を開き、剣術以外、手習、算術も教えているそうでございます。めっぽう評判の良いお人柄で、ご門弟もお行儀の良い方ばかりとか」

「なるほど」

 多くの浪人が困窮に喘ぐ中で、ごく稀な例だろう。武芸のみならず、商人のような才覚が必要となる。言葉を交わした印象どおり、世慣れた為人ひととなりのようだった。


「では、私とお里の偽者の一件はどうだい」

 倫太郎の口調は、どこか愉しげだ。


「すでにもぬけの殻でございました」


 江戸篠井の頭領、児次郎の手の者が動いた。一度は音哉らしき人物を認めたが、気配を察したか、ふつりと消えてしまった。


「店賃は前払いとなっておりました。家財道具もそのまま手付かずで、時折、近所の者が掃除に入るそうでございます。長屋の者たちは口を揃えて」

 と、お登勢は文字どおり困り顔になった。

「二木様は将軍様のご落胤。しかも、世直し義賊の閻魔の狐。お役人に追われ、父君のお為もあって、仕方なく姿を隠されたに違いない──と」

「音は、何を考えているんだ」

 里哉はひとりごちた。


 昨秋、養家を出奔した弟、音哉と三年ぶりに再会した。

 ある人に助けられ、その人に仕えているのだと言った。

 では、そのお方のために盗賊となって世を騒がし、今度は倫太郎とおのれを騙るというのか。

──一体誰に仕えているんだ。


「ならば、瓦版よみうり売りの方はどうだい」

 お登勢は頷いた。

「人相に特徴がある囃し方からあたったところ、旅回りの芸人一家とすぐにわかりました。住居の長屋を訪ねてみたところ、やはりもぬけの殻で、いく先を知る者は誰もおりませんでした」

 生国はおろか、名さえわからない。互いに「笛さん」「太鼓さん」などと呼び合っていたらしく、細かい人相はすでに曖昧だ。


「叔父上は、見当をつけておいでかい」

「決して御自ら動かぬようにとの仰せです」

「そうだね」

 お登勢は困ったように、傍らの里哉へ頷きかける。

「立場は弁える」

 満面の笑顔に、しかし、二人は首を振った。




 出立の朝は雨となった。

 唐紙障子の向こう、枯山水の庭がしとど濡れそぼっている。広縁に囲まれた二間続きの座敷は、一筋の渡り廊下で母家へ繋ぐのみだ。


 実のところ、体のいい軟禁ではないか── 松平 通温みちまさは口元を歪めた。

 江戸おもてより国許へ戻され、すでに十年。このまま一生、として、尾張ここで飼い殺しとなる身であった。


 東照神君の血を引く、尾張徳川家に生を受けた。四代当主となった異母兄吉通よしみちからは偏諱かたいみなを受け、末弟とともに可愛がられた。

 その明君と誉れ高い兄は、何者かに毒殺された。幼い七代将軍の後見を、紀州家と争っていた時分だ。藩邸近くを、紀州の間者がうろついていたとも聞く。

 聡明で、武芸に優れた兄だった。将軍の後見となり、何れは兄こそが武門の棟梁となり、徳川家を盛り立てていくはずだった。


 それが突然血を吐き、悶絶死した。

 結果、紀州の吉宗が後見となり、八代将軍を継いだ。末弟の宗春は兄の恨みを忘れ、吉宗に媚び諂って可愛がられている。憤怒のあまり老職に訴えたおのれは、「狂躁の行いあり」とこの有様だ。


「殿様」

 敷居際で手を突いていた少年が、顔を上げた。害のなさそうな優しげな面立ちだ。髪は結わず、ゆるく一括りにしている。武家か町人か。凛と伸ばした背と、たじろがぬ眼差しに興を覚え、道端で拾った。出自は、その後に知った。だから、駒にした。みずから進んで為った。

 そして、三年。


「旅は如何であった」

 にこりと笑んで答える。

「楽しゅうございました。おのれの知る世というものが、いかに狭く浅いものか、常に目を拓かれる心地でございました」

「ふん」

「及第でございますか」

「兄とは、雲泥の差だの」

「雲泥ゆえ、その通りでございます。しかし、殿様は兄の里哉に会ったことはございますまい」

 非の打ちどころのない兄、というものは知っている。


「それで、江戸へ戻るか」

「はい。手札が揃ってまいりました。そろそろかと存じます」

「俺は、動けぬ」

「殿様は、動かぬことが肝要です。すべては我等にお任せになり、高みの見物をしていてくださいませ。それがお望みである、御家安泰の秘訣にございます」

「怯懦な振る舞いは、性に合わん」

「まだ仰いまするか」

 篠井音哉は、呆れたように背を伸ばした。


「駒には、それぞれ役割がございます」

 通温は、恐れを知らぬ目を見返す。

「殿様に拾って頂かねば、野田れ死んだ命でございます。しかし、無用に捨てる気は毛頭ございません」

「恩義は不要」

「無論でございます」

 よほど傲岸に喉を晒す。

「これは〝正義〟でございましょう」

 通温は笑んだ。


「よいか、瀧七郎右衛門から目を離すな。瀧は……備前屋はおのが思惑で動くぞ」

「心得ております」

 音哉は距離を詰めると、脇息にある通温の手にふれた。

「お別れでございます」


 名残の氷雨が降る。





(続く)





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