95話 狐疑の心
「御免、吉次殿はご在宅か」
日本橋佐内町の一角である。武部小路を一本入った先の、間口の狭い瀟洒な貸家だ。軒先には、『よろずひきうけ
「二木様、どうぞお上がりください」
間をおかず、秀麗な容貌の町人が顔を出す。よろず屋吉次、この屋の
「朝から
「おい、聞こえているぞ!」
やれやれと肩をすくめる。
「よう」
奥では、炬燵に両手を入れた堤清吾が、達磨のように背を丸めていた。八丁堀らしい洒脱な男なのだが、
「俺ァ、寒いのが大の苦手でな」
「お加減はどうですか」
「すっかり、しっかり本復だ──お、二木さん、ありがてえ。伊織さん、
倫太郎が下げてきた酒徳利に、相好を崩す。
「で、どうだえ」
倫太郎も、するりと炬燵に足を入れた。
「行ってきました」
「で?」
倫太郎は、焦らすように邪気のない笑顔となる。
「普通の町道場のように見受けられました。しかし、普通がどのようなものかわからないので、私にはなんとも言えませんが」
「そうかい」
「なので、長屋の原さんへ頼んで、通ってもらおうと思っています」
「あの、図体のでかい浪人者だな」
原とは、〈白〉の一件で知己を得ている。
「腕は申し分ないが、大丈夫かえ。小技は効かねえお人だろうが」
「何を探ってほしいのか、それさえ教えて頂ければ問題ありません。〈白〉の時も、吉次殿の仕事で、和久井屋へ間諜に入ったと聞いています」
堤清からの頼みは、牛込榎木の本間道場を一寸探って欲しい。
しかし、その一寸かわからない。
「洲崎の殺しとどう繋がるのです」
「さあ。まだ、わからねえがな。ま、気になることがあったら、逐一知らせてくんな」
「気になること、ですか」
「御公儀の御用とは、そんなもんだ」
にやりとしたあと、一瞬、台所へ立った吉次へ目を遣った。
「先日、楓川の海賊橋辺りで、お里坊を見かけたらしい」
「楓川の海賊橋、ですか」
江戸の河川は複雑極まりない。
「お里は、よく本屋や古道具屋を見て回っているようですので、それではないでしょうか」
「俺も、伊織さんから聞いた際は、使いか買い物かと思ったんだがな」
引き取ったのは吉次である。小鉢と箸、酒器を配る。
「見知らぬご浪人と連れ立って行かれたので、気になって付いて行ったのです」
海賊橋の袂ですれ違ったが、吉次に気づいた素振りもなく、
「ほど近い小松町の裏長屋へ入って行きましたので、住人に尋ねてみたのです。あれは、どなたかと」
堤清吾は、酒を舐めながら倫太郎を窺っている。
「二木と名乗る若いご浪人と、そのご家来で篠井というお方で、昨年夏に、長屋へ引っ越してきたと」
倫太郎は、わずかに眉を寄せた。
「まさか、私の偽物だというのですか」
「さあ」
堤は、なみなみと酒を満たす。
「それを二木さんに聞きたくてな」
「私に、ですか」
「あんた、一体何者だ。
倫太郎は、堤と吉次へ目をやり、ふっと笑む。
「私は、二木倫太郎です」
「ならば、小松町の二木とやらは、何者だ」
「わかりません。今、初めてお聞きしたのです」
嘘ではない。初耳だが、その篠井が誰なのかは見当がつく。無論、
堤は倫太郎を凝視したあと、湯呑みを一気に空け、さらに継ぎ足した。
「なら、こっちで調べても構わんな」
「勿論です」
「こいつは旨いな」
倫太郎も一息に干して、破顔した。
「旨い」
江戸は江城(千代田城)、大廊下上之部屋。御三家が詰める大広間に、いま、二人の太守が控えていた。
尾張中納言徳川継友と、紀伊中納言徳川宗直である。この年、継友は齢三十八歳。宗直は
御三家のうち、尾張と紀伊は参勤交代が御定である。交互に在府することも多く、親族でありながら、滅多に顔を合わせることはない。二人は、念入りに時候の挨拶を交わし、年明けからの天候不順と天変地異について、「上様のご心中如何許りか」と、締め括る。
「そう言えば」
と、年長の宗直が言った。
「妙な噂を耳にしましたが、尾張殿はご存知でしょうか」
「噂、でございますか」
太守らしく、鷹揚に問い返す。
「歳を重ねますと、愚蠢なれども人言が面白うなりましてなあ」
と、紀州宗直は白扇を広げて声を潜めた。
「例の上様の箱でございます」
「あの直訴箱でしょうか」
軽く頷く。
「由々しき訴状がまじっているとか」
継友は興味深げに、わずかに笑みを深くした。
「と、申されると」
「鍵を持っておられるのは、上様のみ。側近や庭仕えの者までが不寝番をするなかで、どういうわけか、胡乱な血文字の訴状が紛れている」
「それは面妖な。しかも血文字とは。どうやってそのようなものが」
「ごめんくださりませ」
平伏した、蟹のごとき茶器代えの坊主をやり過ごす。
「上様の御庭番は、元はといえば、当紀州家抱えの者どもでございます。となれば、由々しき大事かと」
「お気になさることはないでしょう」
さらりと言って、継友は中庭の冬枯れた寒々しさに目を細めた。春はいまだ遠そうだ。
話題を転じる。
「来る卯月に、上様の日光東照宮御参拝がございます。その時分には、うららか
「上様は、ことのほか馬上を好まれますからな。国許でも、よく浜駆けをなさっておいでだったと、家中の者が申しておりました」
「武門の棟梁として、ご立派なお心掛けでございましょう」
然哉、然哉と頷き合う。
「それにしても、冷えますな」
それぞれの手炙りを引き寄せ、暫し歓談を愉しんだ。
(続く)
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