94話 真贋
亡骸は、回向院に葬られた。
残ったのは、血染めの着物と博多織の帯。両方とも、古着屋でも相当の値がつきそうな上物だった。縫目も見事に揃って乱れがない。
だが、身元を示す手掛かりにはなっていない。
首は、死後に刎ねられおと判ったが、医者は、さらに毒殺かもしれぬと、四肢の紫斑を示した。
「恐らくは、石見銀山(砒素)でしょう」
──こいつは一体何者だ。
顔を焼いて打ち捨てられた。「見よ」と言わんばかりに洲崎弁天の参道脇へだ。
恐ろしいほどの悪意だ。ただ殺すだけでは飽き足らず、恨み、つらみ、もしくは──。
「──旦那、ねえ、堤の旦那。すっかり寝ぼけていなさるんですか」
目の前の三皿には、小魚の甘辛煮、南瓜の出汁煮、青菜と貝柱の煮付けが並んでいた。温燗の徳利。手にはぐい呑み。堤が持ち込んだ檜の椀だ。
我に返り、危うくこぼれそうになったそれを、すくうように口元へ運んだ。
「ああ、よかった。近頃お疲れだってうちのひとが言うもんだから」
と、目の前で柳眉を上げ、軽く睨んでいるのはお鯉だ。思わず口許がゆるむ。
「留蔵が、あんたと
「なんですか、そのギョウコウって。ただただ、あたしがあの人に惚れたんですよ。女房にしてって、押しかけて頼み込んだのは、あたし」
「そりゃ、ご馳走さんで」
深川下元町の居酒屋「こひぢ」である。二坪あまりの小さな店で、丁度客足が切れた頃合いだった。暇があれば手伝う留蔵も留守らしく、お鯉ひとりで孤軍奮闘だ。
その時、暖簾を分けて、役者絵から抜け出てきたような顔が覗いた。
よろず屋吉次、堤清吾の密偵である。傘をたたんで戸口へ立てかけ、手ぬぐいを出して肩のあたりを、裾を払った。堤へにっと笑いかける。
「ああ、もうおいででしたか」
堤は目を細め、手招いた。
「だいぶお待たせしましたか」
「野暮用が早く済んじまってな」
「あら、吉次さん、いらっしゃい。お出でになるってわかっていたら、お好きな卵豆腐、作っておいたんですけど。うちのひとったらなんにも言わないから」
「なにをいただいても、お鯉さんの料理は天下一品ですよ」
「あら、やだ」
お盆を抱えて、お鯉は年下の吉次へ少女のように頬を染めた。
「お皿は、堤さまと同じでいいかしら」
手早く整え、炒茶を添えて運んで来ると、長居はせずに賄いへと戻っていった。その辺りはよく心得ている。もともとは名の知れた料理屋で、仲居をしていた女だ。
「それで、例の件はどうだ」
「変わりありません。それとなく大家に探りをいれたところ、あの室は貸せないの一点張りで」
日本橋小松町の裏長屋のことだ。吉次が楓川の海賊橋ですれ違った、篠井里哉と二木倫太郎のにせものの住居だった。
吉次から聞いて見張らせたものの、気がつくと二人は煙のように消えていた。
店賃はまとめて払ってある。長屋の住人に話を聞くと涙ぐむ者さえいて、「あの二木様が、ご落胤の若様にちがいねえ」と頷くのである。
「なにかえれえことが起こって、ここに居られなくなったんですよ」
いつの間にか二木倫太郎という浪人が、将軍吉宗様のご落胤だだという話になっていた。口にこそ出さないが、義賊〈閻魔の狐〉に違いねえと、長屋中が知らぬ存ぜぬで庇っていた。
「厄介だが、動きがあったら、知らせてくんな」
「それはそれで構いませんが、堤さん」
と、吉次は秀麗な相貌に、探るような笑みを浮かべた。
「この一件、何かご存知ではないのですか」
南町奉行である大岡忠相より、倫太郎の身辺を探り報告するよう命じられている。無論、吉次には言っていない。
「知らねえ方がいい」
「承知」
深追いしないのも、いつものことだ。
「実はもう一点。采女ヶ原の『田野川』なのですが」
火事で移転した大名屋敷跡だ。跡地の馬場は、決して上品とは言えぬ歓楽地となっていた。その一角にある待合(出会茶屋)は、〈謎謎百万遍〉で名を上げた口入屋、備前屋徳右衛門所有の店とわかった。
「おい、あの店には近づくなと言っておいたろう」
以前店を探った際、吉次は腕に怪我を負った。以後、別の者に見張らせているが、妙な動きはない。
「深追いするなと言ったはずだ」
「私じゃあ、ありません」
凄む堤を、楽しむかのように笑う。
「十日ほど前です。妙な客が転がり込んだので、念の為。出過ぎた無用でしたら、ここで止めますが」
どうします、と形のよい眉をあげる。
「言え」
堤はお鯉へ合図をし、蕎麦を二人前追加した。
「ご浪人です。身なりはこざっぱりとしていたそうですが、なんとなく尋常ではない様子で。そのお方が裏木戸の方から『田野川』へ入ったきり、まったく出てこない」
「それで」
「実は、その次が大層面白い」
吉次は、わずかに声を落とした。
「それ以降、『田野川』にえらく重そうな荷物が運び込まれていましてね。しかも、とっぷり日暮れてから大八に薦被りで」
「酒じゃねえのか」
「さあ。それにしちゃ轍が深いって、うちの菊蔵が言うんでね」
吉次の情人で肝の座った元盗人──腕利きの詐欺である。
堤の勘が、半鐘を打つ。
「そこまでだ、伊織さん。今後一切『田野川』へは近づくな。さもないと──」
「さもないと?」
「大望が果たせないかもしれんぞ」
ほっと、吉次の肩から力が抜けた。それを見越したように、お鯉が茹で上がった蕎麦を運んできた。
「お二人とも、そんな難しい顔をしないで、うちの蕎麦を召し上がってくださいな」
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます