93話 禍福は糾える縄の如し

 添水そうずが蹲を打った。


安房守あわのかみ様におかれましては、ご機嫌麗しく、祝着至極に存じ奉ります」

 芝居がかった口ぶりで深々と平伏するのは、備前屋徳右衛門である。江戸三河町に店を構える口入くちいれ屋(武家奉公斡旋業)で、半ば白くなった鬢と、笑い皺で埋まった面立ちが、どことなく小猿のようだ。先般、江戸市中で大人気となった無尽講、〈謎謎百万遍〉の受付会所を仕切り、広くその名を知られるようになった。


 上座で脇息に凭れ掛かっているのは、三十半ばの殿様然とした男だ。眉根を癇性そうに寄せ、備前屋の大仰な口振りに口元を歪めた。


「遠路、大義である。最も、ご機嫌麗しくなどないがな」

 備前屋は、床に額を擦り付けた。

「これはご無礼申し上げました。どうか平にご容赦くださりませ」

「兄上に蟄居を申し付けられ、こうして国許で燻っている私を嘲りに来たのか」

 備前屋は、ますます驚懼した態で言う。

「滅相もございません。手前ごとき一介の商人あきんどが、何故なにゆえ尾張中納言様のおん弟君を弄し奉りましょうや。在の無聊を少しでもお慰めできればと、その一心にございます」

 のうのうとした言い様に、安房守は軽く鼻を鳴らした。


「それで、何用だ」

 備前屋は、上目がちに上座を窺いながら、ゆるゆると背を伸ばした。不遜というより、寧ろ無礼なほどである。


 簡素な十畳ほどの座敷だが、欄間の木彫もくちょうが見事だ。一対の鳳凰が羽を広げ鶏冠を上げ、今にも飛び立ちそうな勢いである。立て切った障子戸の向こうからは、渓流であろうか、勢いある水音がする。


「安房守様。年明けより江戸の町は、将軍様のご落胤の噂で持ちきりでございます」

「ほう」

 さらに深く脇息に凭れ、面白くなさそうに言う。

「上様は部屋住のみぎり、馬のように種付けに励んだというではないか。落とし胤の一人や二人、いてもおかしくなかろう」

「左様で」と、備前屋は受け流す。

「しかし、そのご落胤様が、〈閻魔の狐〉などと称する賊らしい、となると御城の御方々は、さぞやお困りであろうかと」

 扇子を閉じる。

「賊、とは如何なる賊か」

「義賊でございます。もしくは、義賊を騙る盗人でございましょう」


 安房守は、手にしていた白扇を開く。

「備前屋、口は禍いの元とか申すがのう」

「畏れながら、町雀の浮評でございます」

 備前屋は、笑い皺を深めた。


。わざわざ参ったのはそのためか」

にございます。商いのにて、面白いものを入手致しましたので、御贔屓を頂いております安房守様に、殊のほかお悦びいただけるかと存じ、お寄りいたしました次第でございます。手前はこの足で京阪へ参り、もうひと商いいたします」

「勝手にせい」

 うんざりと言う。

「御宿願を果たすに、うってつけのものでございます。のちほどご披見下さいますよう」


 松平安房守通温みちまさは、眉ひとつ動かさない。目を眇めまじろがず、備前屋を睨め付ける。

「宿願などないわ。この杣屋で朽ち果てるのみ。それが兄上のご所望じゃ」

 備前屋は平伏する。

「いずれ、ご納得いただけましょう。その折には」

 通温は、下がれと言わんばかりに手を払った。





 二木ふたき倫太郎は、原 賢吾と牛込榎木町にある宗柏寺の境内にいた。賑わう境内の茶店に入り、熱々の甘酒を啜っていた。


 今年は、とみに寒さが厳しい。一昨日も明け方からの雨が霙となり、日暮れ近くまで氷雨が続いた。例年であればほころび始める桜も、まだまだ固い蕾のままであった。

 倫太郎は甘酒の椀を置き、半身振り返った。


「何も訊かないのですね」

「何をお尋ねすれば宜しいか」


 原が手にしているのは、団子の皿である。すでに三皿目を平らげ、どうしようかと迷っているようだ。六尺近い壮漢ではあるが、わっぱのような愛嬌がある。


「そうですね」倫太郎は、少し考えた。「どこへ行くのかだの、なぜ誘ったのかなど、わたしならば不思議に思います」

「確かに」

 さして重要でもなさそうだった。


 原賢吾は、同じ長屋に住う浪人者だ。素性はわからない。だが、「朱厭の掛軸」の一件が解決した直後だ。

 長屋へ戻ると、平伏した原がいた。倫太郎を「若君」と呼び、「身命を賭して守る」と言う。

 里哉の父であり、倫太郎にとっては叔父にあたる篠井児次郎の采配と聞き承知したものの、経緯いきさつを問うと、

「父方の縁戚が、少々紀州様に所縁ゆかりがございます」

 とだけ言った。どのようななのか話すつもりはないらしい。万事、その調子である。


「──では、行きましょう」


 向かったのは、三町ほど先の町道場であった。御先手組の組屋敷が並ぶ一画で、簡素な冠木門の奥から、打ち込み稽古の音が聞こえていた。


「ここですか」

「そのようですね」


 式台で声を掛けるが、応えはない。倫太郎は吊るされた鯉の魚板を打った。

 ほどなく元服前の少年──というには上背のある門弟が出てきた。

「私は二木倫太郎と申します。本間先生のご高名を拝し、ぜひとも見学させて頂けぬものかとお訪ねしました」

 手をついて一礼した少年は、暫時お待ちください、と奥へ戻って行った。


 代わりに出てきたのは、五十前後の中肉中背の男だった。武芸者というより、主人持ちの祐筆といった風貌である。柔和な笑を浮かべ、道場主の本間平右衛門だと名乗った。

「見学をご所望とか」

「はい。是非とも」

 本間は原賢吾へ目を遣り、さらに笑みを深くした。

「試合を望まれてのご来訪か」

 元禄以降、他流試合は禁じられている。それでも、道場荒らしは絶えなかった。若い浪人者の二人連れだ。疑われても仕方ないだろう。

 倫太郎は、笑顔で答えた。

「出府の際は、ぜひ打ち込み稽古というものを拝見したいと思っていました。本間殿の道場を勧めて頂いたのです」

「ほう。どなたに、ですかな」

 あくまでも穏やかだが、断る心算が隠れ見える。

「南町定町廻りの堤殿です」

 ああ、と本間はようやく本心から破顔した。幾度か頷く。

「なるほど。それではお断りはできませんな。どうぞお上がりください」


 太平の世となり、型稽古が主流だ。木剣もしくは真剣を構え、その美しさ、固有性を競った。

 そのなかでも直心影流は、近年防具を改良し、竹刀を以て打ち合う「打ち込み稽古」を用いた。これには町人までもがこぞってその門を叩き、稽古を楽しんだという。


 本間が案内したのは、三間五間ほどの道場であった。庭に建てたようで、母屋から渡り廊下で通じている。

 中では、十名ほどの門弟が竹刀を合わせていた。手を止めようとするのを抑え、本間は二人を正面へ案内した。

「このところ、売名のため挑む者が後を絶ちませんでなあ。ご無礼をお許しくだされ」

「お察しいたします」

 八代将軍吉宗の代となって、武芸諸般が奨励された。幕府のみならず諸大名らも競って武芸者を召し抱えたことから、浪々の身にとっては格好の売り込み方法である。


「こちらで好きなだけ見分してください。失礼ながら、これから他出しますので、あとはよしなに」


 門弟も慣れているのか、先程の少年が白湯を供してくれた。

「あなたも門弟ですか」

「はい、鏑木景之進と申します。父の縁で幼少の頃より通わせていただいております」

 背ばかり伸びたような少年は、羞含はにかんだ笑顔を見せた。

「あの、二木様は入門をご希望でしょうか」

 言って、しまったというように目を見開いた。

「ご無礼いたしました。立ち入ったことを申しました」

 倫太郎は励ますように頷くと、

「どうですか、原さん」

 原賢吾を振り返る。身を乗り出し、目を輝かせていた。

「なるほど。これは面白いですな」

 それから半刻あまりして、二人は本間道場を後にした。




(続く)





 

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