92話 遺恨と怨恨(二)
「留蔵殿から、七代様の後継には、尾州様が優勢だったと聞いたが、どうして紀州様となったんだい」
「急にどうした」
訝しげに問い返した
真慧は、手元に反故を引き寄せた。
「聞きかじりだぞ」
裏返して、「尾張」「紀伊」「水戸」と書く。藩祖と当時の藩主、互いの血縁関係を線入れしていく。
深川花六軒長屋の真慧の住居だ。殺風景な部屋には、布団と枕屏風に柳行李がひとつ。あとは文机程度である。坊主の住居らしいと言えばその通りなのだが、煩わしいからだろう、と倫太郎は察している。
「まず、水戸藩は別だ。常在府の副将軍と定めされている。つまり、本家に何かあれば、尾張か紀伊が嗣ぐことになる。だから当然、格上の尾張が次期将軍家だろう──誰もがそう思った」
確信のある口調に、
「左門様からの受け売りだ」
と、にやりとした。
左門とは、松平左門
が、ゆえあって故人である。
真慧は、紀伊家に丸をつける。
「吉宗様は、かなり
なるほど、と頷く。
「それにな、尾張には藩祖義直公の遺訓があるらしい」
口の端を歪める。
「『尾張は将軍位を争うべからず』」
「なぜ」
真慧は、肩をすくめた。
「さあ。加えて、奥の方でも、色々と面倒があったらしいぞ。それ以上は、加納の爺さんへ聞いてくれ。よくよく知っているはずだ」
吉宗の側近である加納
「急にどうした」
「わからない」
真慧は、片眉を上げた。
「いつものあれか。わからないが、気にかかる」
「まあ、そんなところだ」
「君子危うきに近寄らず、だろう」
倫太郎は、声を立てて笑った。
「私は君子ではないよ。江戸へ呼ばれたのは、理由があるからだろう。その理由を知らされないのも、やはり理由があるからなのだろうな。だから、のんびり待つだけさ」
「まるで、爺さんの独り言だな」
真慧は、鼻を鳴らして盆を引き寄せた。火鉢で沸く湯を、土瓶へ注ぐ。
「ま、俺はとことん付き合ってやるさ。左門様との約束もあるしな」
「おまえは友か、それとも家来か」
「馬鹿言ってろ」
倫太郎は茶を含みながら、思わず笑んだ。
西陽射す座敷に、男は座していた。藺草のよい香りが漂っている。
昨夜から一睡もせず、動かず、膝前に置いた刀袋を睨んでいた。余程大振りの業物なのだろう、五尺はある。
立て切った障子戸の手前、夕餉と思しき膳──二の膳まで付いた──が置かれ、さらに
膝より一尺ばかり先を、使い古したその古代錦の刀袋を、日が暮れるまで凝視していた。
これは本当に正しき行いなのだろうか。
一分でも私怨があれば、それこそ大義に悖る。
男は息を吐き、もう一度、おのれの心底を覗き込んだ。
怨み、ではない。
怒り、はある。
それを知った時の驚きと、忿懣と、痛みを忘れてはいない。
しかし、おのれはもう前髪立ちの若者ではなかった。
時は流れ、世は定まった。
つまり、動かし難い。
(ならば、義はどこにある)
国を治むる
だからこそ、糺さねばならぬのだ。奪われたものを、盗み取られたものを、本来受くるべき御方へ取り戻す。
そうだ。それは、正しい。
ならば、この身は正しきことを為すための道具となればよい。
男は、刀袋を手にした。慣れ親しんだ重みに、心が澄んでいく。
世を騒がすつもりはない。
狙うは、たった一つの
この一大事ゆえに、おのれは生を受けたのやも知れぬ。
──天よ、ご照覧あれ。
のちに謂う目安箱は、通例「箱」と称された。毎月三回。二、十一、二十一日に、辰ノ口の評定所門前に設置される。
おのれの名、住居を明記し、役人が見守るなか、ひとりひとりが「箱」へ投じる。
翌日、「箱」は厳重な監視のもと、江戸城内へ運び込まれ、中奥の御休息之間で、将軍自らが解錠、見分した。
その日、享保十三年二月十二日。慣例に従い、
吉宗は齢四十五。質素な木綿の着物を身につけ、太い眉と炯々とした眼差し、家康によく似た風貌は、正二位という殿上人よりも、武家の棟梁たる征夷大将軍にこそ似つかわしい。
「箱」は人手を介さず、加納自らが御前へ献上する。そのまま、にじり下がり、平伏した。
吉宗は背後の小姓らを下がらせると、守袋から鍵を出して、いつものように解錠した。
訴状が流れ出るなかに、やはりそれがあった。
「角兵衛」
加納は、素早く吉宗の元へ寄った。
「お手を触れませぬよう」
声を落とし、懐より懐紙を出すと、朱墨で「訴」と表書きされたそれを引き出した。
「例のものか」
「恐らくは」
「
「御庭御用の者に逐一検分させておりましたが、不審な者はおりませなんだ」
「ならば、評定所から城中に至るまでか」
「不寝番の落度とは、思えませぬ」
加納は、その訴状を小柄で開封した。年頭よりこれで四度目。表を朱書きし、開けばただ一文字。
──怨。
これがいつ、どこで投じられたのか。幾重もの監視の目を掻い潜ったとなると、必ずどこかに手引きした者がいるはずだ。
加納は、朱書きの訴状を懐へ入れ、吉宗と頷き合う。
「児次郎へ」
「頼む。──さて、今日はどのような訴えがあるかの」
吉宗は、手近な訴状を手に取った。
(続く)
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