92話 遺恨と怨恨(二)

「留蔵殿から、七代様の後継には、尾州様が優勢だったと聞いたが、どうして紀州様となったんだい」

「急にどうした」


 訝しげに問い返した真慧しんねへ、倫太郎は「こひぢ」で聞いた話を繰り返した。

 真慧は、手元に反故を引き寄せた。


「聞きかじりだぞ」


 裏返して、「尾張」「紀伊」「水戸」と書く。藩祖と当時の藩主、互いの血縁関係を線入れしていく。


 深川花六軒長屋の真慧の住居だ。殺風景な部屋には、布団と枕屏風に柳行李がひとつ。あとは文机程度である。坊主の住居らしいと言えばその通りなのだが、煩わしいからだろう、と倫太郎は察している。


「まず、水戸藩は別だ。常在府の副将軍と定めされている。つまり、本家に何かあれば、尾張か紀伊が嗣ぐことになる。だから当然、格上の尾張が次期将軍家だろう──誰もがそう思った」

 確信のある口調に、

「左門様からの受け売りだ」

 と、にやりとした。


 左門とは、松平左門頼雄よりかつと言い、倫太郎の大叔父にあたる。幼少時、紀伊田辺に隠棲していた左門のもとへ預けられ、薫陶を受けた。

 が、ゆえあって故人である。

 真慧は、紀伊家に丸をつける。


「吉宗様は、かなり吝嗇けちなお方ながら、知恵がある。金子かねの作り方も知っていた。実際、兄君たちが相次いで早死にして、いきなり紀州藩を継いだのに、十年経たずに財政の立て直しに成功した。本家でも、その手腕を期待したのだろうさ」


 なるほど、と頷く。


「それにな、尾張には藩祖義直公の遺訓があるらしい」

 口の端を歪める。

「『尾張は将軍位を争うべからず』」

「なぜ」

 真慧は、肩をすくめた。 

「さあ。加えて、奥の方でも、色々と面倒があったらしいぞ。それ以上は、加納の爺さんへ聞いてくれ。よくよく知っているはずだ」


 吉宗の側近である加納久通ひさみちは、倫太郎と真慧にとっても、幼少時から面識のある人物だ。


「急にどうした」

「わからない」

 真慧は、片眉を上げた。

「いつものあれか。わからないが、気にかかる」

「まあ、そんなところだ」

「君子危うきに近寄らず、だろう」

 倫太郎は、声を立てて笑った。

「私は君子ではないよ。江戸へ呼ばれたのは、理由があるからだろう。その理由を知らされないのも、やはり理由があるからなのだろうな。だから、のんびり待つだけさ」

「まるで、爺さんの独り言だな」

 真慧は、鼻を鳴らして盆を引き寄せた。火鉢で沸く湯を、土瓶へ注ぐ。

「ま、俺はとことん付き合ってやるさ。左門様との約束もあるしな」

「おまえはか、それともか」

「馬鹿言ってろ」

 倫太郎は茶を含みながら、思わず笑んだ。





 西陽射す座敷に、男は座していた。藺草のよい香りが漂っている。


 昨夜から一睡もせず、動かず、膝前に置いた刀袋を睨んでいた。余程大振りの業物なのだろう、五尺はある。

 立て切った障子戸の手前、夕餉と思しき膳──二の膳まで付いた──が置かれ、さらに乱箱みだればこの着替えに、手をつけた様子もない。


 膝より一尺ばかり先を、使い古したその古代錦の刀袋を、日が暮れるまで凝視していた。


 これは本当になのだろうか。

 一分でも私怨があれば、それこそ大義に悖る。


 男は息を吐き、もう一度、おのれの心底を覗き込んだ。


 怨み、ではない。

 怒り、はある。


 を知った時の驚きと、忿懣と、痛みを忘れてはいない。

 しかし、おのれはもう前髪立ちの若者ではなかった。

 時は流れ、世は定まった。

 つまり、動かし難い。


(ならば、義はどこにある)


 国を治むるもといは、理と義である。君子たる者が、賊に堕ちたのであれば、その治世もまた、虚妄ではないか。


 だからこそ、糺さねばならぬのだ。奪われたものを、盗み取られたものを、本来受くるべき御方へ取り戻す。


 そうだ。それは、正しい。

 ならば、この身は正しきことを為すための道具となればよい。


 男は、刀袋を手にした。慣れ親しんだ重みに、心が澄んでいく。


 世を騒がすつもりはない。

 狙うは、たった一つの首級みしるしのみ。

 この一大事ゆえに、おのれは生を受けたのやも知れぬ。


──天よ、ご照覧あれ。





 のちに謂う目安箱は、通例「箱」と称された。毎月三回。二、十一、二十一日に、辰ノ口の評定所門前に設置される。

 おのれの名、住居を明記し、役人が見守るなか、ひとりひとりが「箱」へ投じる。

 翌日、「箱」は厳重な監視のもと、江戸城内へ運び込まれ、中奥の御休息之間で、将軍自らが解錠、見分した。


 その日、享保十三年二月十二日。慣例に従い、御側おそば御用取次ごようとりつぎの加納久通は、自ら「箱」を捧げ持ち、中奥御休息之間で待つ、将軍吉宗の御前へ進んだ。


 吉宗は齢四十五。質素な木綿の着物を身につけ、太い眉と炯々とした眼差し、家康によく似た風貌は、正二位という殿上人よりも、武家の棟梁たる征夷大将軍にこそ似つかわしい。


 「箱」は人手を介さず、加納自らが御前へ献上する。そのまま、にじり下がり、平伏した。

 吉宗は背後の小姓らを下がらせると、守袋から鍵を出して、いつものように解錠した。

 訴状が流れ出るなかに、やはりがあった。


「角兵衛」


 加納は、素早く吉宗の元へ寄った。

「お手を触れませぬよう」

 声を落とし、懐より懐紙を出すと、朱墨で「訴」と表書きされたを引き出した。


「例のものか」

「恐らくは」

昨日さくじつは、如何であった」

「御庭御用の者に逐一検分させておりましたが、不審な者はおりませなんだ」

「ならば、評定所から城中に至るまでか」

「不寝番の落度とは、思えませぬ」


 加納は、その訴状を小柄で開封した。年頭よりこれで四度目。表を朱書きし、開けばただ一文字。


──怨。


 これがいつ、どこで投じられたのか。幾重もの監視の目を掻い潜ったとなると、必ずどこかに手引きした者がいるはずだ。

 加納は、朱書きの訴状を懐へ入れ、吉宗と頷き合う。


「児次郎へ」

「頼む。──さて、今日はどのような訴えがあるかの」


 吉宗は、手近な訴状を手に取った。





(続く)




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る