91話 苦界十年
よろずや吉次がそれを見かけたのは、
吉次は年に一度、猫のように大門をくぐる。明石という名の遊女を買い切り、三日
すまは、ぽってりと、日だまりで咲く紅梅のような女になった。
紅尽くしの禿で、姉の後ろで咲っていた。面差しは変わらない。せめて、年期明けには、身の立つようにしてやりたい。
── わっちをもちっと熱くしてくんなさへ。
三日三晩、指一本触れていない。
(おめぇも、損な性分だなあ)
出かけしな、堤清吾が黙って金子を寄越した。行く先も理由も、見越してのことだろう。鼻を啜り、卵酒を親の仇のように睨みつけていたのを思い返し、自然に口許がほころんだ。
ならばと、例の洲崎の一件を聞き込んだものの、手掛かりはない。むしろ、〈狐〉とご落胤の噂で持ちきりで、洲崎の顔のない死人のことなど、誰の口の端にも上がらなかった。
楓川にかかる海賊橋を渡り始めた時だった。
見知った顔とすれ違った。
柔らかな頬が残る若侍だ。眼鏡を掛け、子供のような足取りだ。
それが、吉次と逆を歩いて行く。こちらに気づかないのか、目ひとつ合わせなかった。
(妙だな)
若侍は、篠井里哉という。深川の六軒長屋に住み、同居する浪人者、二木倫太郎の侍者だ。
だが、今日同伴しているのは、見たこともない浪人者だ。親しそうに言葉を交わしながら通り過ぎて行く。
(妙だ)
この辺りは商家も多く、奉公人やら職人やらが大勢行き交っている。単に、気づかなかったのかもしれない。
だが、その勘が、密偵として生きる身を助けてきた。
吉次は、一旦橋を渡りきりると、落ち着いた足取りで踵を返した。右の目の端に、篠井里哉と同行する浪人者、二人の背を捕らえながら、気配を殺して跡をつけた。
ほどなく、小松町辺りの裏長屋へ続く木戸をくぐった。すれ違った赤ん坊を負ぶった女と、親しげに挨拶を交わしている。
追わず、向かいの角から、木戸の出入りをうかがった。
すると、店子らしい大工道具を担いだ若い男が出てきた。面皰面で目の細い、体格のよい男だ。
「兄さん、ちょいとお尋ねしますがね」
大工は足を止め、振り返ると相好を崩した。
「なんだい、やけにきれいな兄さんじゃねえか」
「あたしは菊蔵と申しますが、そこの長屋の木戸で、ちょいと知り合いを目にしましてね。ご浪人さんと、若いお供の方なんですが、お名前をご存知なら教えて頂けないかと思いまして。お武家様をお人違いして、お手打ちにでになったらいけません」
「ああ、もっともだ」
大工は、声を上げて笑った。
「そいつは、おそらく
「二木様」
思わず、鸚鵡返した。
「ああ。二木倫太郎さまと、お供の篠井里哉さまだ。ほら、よく言うじゃねえか。掃き溜めになんとやらって。えらく気さくなお二人でな。わけありらしいんだが、うちの長屋で知らねえ奴はいねえほど馴染んでいなさる。
「──ああ、堤。来たか」
南町奉行大岡
奉行所内の役宅である。帰宅しようとした矢先、内与力の
何の用かと問い返すと、
「はて、拙者は存知よらぬが」と、細くなりかけた髷を指で撫でた。もともと大岡家の家人だった男で、内与力のなかでも、特に忠相の信頼が篤い。どこかのんびりした風情のまま、「確かに、伝えましたぞ」とだけ言い、弁当の包みを下げて帰ってしまった。
「お奉行、お召により参上仕りました」
堤清吾は上司へ向かい、畏まって礼を執った。
「すまんな。わざわざ。具合はどうだ。酷い風邪を引き込んだと聞いたぞ」
「お気遣い、痛み入ります」
さらに近づくよう手招く。
「先般、おまえに、ある浪人者について調べるよう命じたが」
(そこ、か)
昨夏のことだ。深川の花六軒長屋に住まう浪人、二木倫太郎についての身辺調査を命じられた。日々の暮らしから交友関係まで、逐一調書にまとめた。無論、理由は知らない。大岡より、さらに川上からの命であろうと踏んでいた。
「はて、何のことでしょう」
堤は、大仰に惚けてみせた。大岡の口元が、心做しかゆるむ。
「ならば、改めてその方へ申し付けたい。深川門前町一丁目の長屋に、浪人者が従者と共に暮らしている。この者の動向を、逐一知らせて欲しい」
「逐一、でございますか」
畏れながらと、堤は顔を上げ問い返した。
「どのような嫌疑でのお調べか、お教え頂いてもよろしゅうございますか」
大岡は、眉ひとつ動かさなかった。
「おまえも知っておろう。近頃市中で、畏れ多くも、上様のご落胤に関する風説が
「その者が、ご落胤であると思し召しか」
「堤」
黙れ、とは言わない。
「真偽は、儂の預かり知らぬことだ。だが、市中の治安は町奉行所の責務である」
「ははっ」
ならば、私邸ではなく、表の奉行所──番所で命じればよい。それをわざわざ役宅に呼びつけるというのは、
(町廻りの
大岡は眉ひとつ動かさず、堤の返答を待っている。
(危ねえな)
二木倫太郎の顔を思い浮かべた。呑気に構えていても、面倒を引きつける男だった。あの長屋自体、得体のわからぬ者が多過ぎる。
それでも、興味が勝る。
しかも、万が一の万が一、あの若侍がご落胤とやらだったら、さらに面白いことになるだろう。
堤は平伏した。
「承知仕りました。して、ご報告は如何ように」
(続く)
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