90話 遺恨と怨恨(一)

 享保年間は、徳川幕藩体制にとって百年来の折り返し地点であった。

 八代将軍となった吉宗は、急務であった財政立て直しに着手し、大胆な農政改革、米価・物価統制に加え、文治政治を改めることで、武門の棟梁としての威信回復に努めたのである。

 一方で、続く天候不順は飢饉を招き、各地で一揆や強訴、打ち壊しへと繋がっていった。

 この年、享保十三年──。

 江戸は、いまだ平かであった。




「つまり、こういうことなんでさ」

 御用聞きの留蔵が、鼻息荒く身を乗り出した。


 深川下元町の「こひぢ」だ。留蔵の恋女房お鯉がきりもりする、小さな居酒屋である。今夜も赤い襷をかけ、甲斐甲斐しい。

 留蔵は、一見鬼瓦のようで厳つい男だが、これが不思議と人好きがして、御用聞きでも、客商売でも苦労がない。


「あん時は七代しちだい家継いえつぐ様が、ころっと逝っちまった。もともとお身体がお弱い方らしいですがね。御年おんとし八才じゃ、お世継ぎなんぞいやしねえ。そこで次の将軍様には誰がなるってんで、下々も大騒ぎでさあ」

「だろうねえ」


 相槌を打つのは、やはり二木倫太郎である。大根とあらの煮込みを肴に、嬉しそうに手酌でやっている。留蔵はというと、料理を運んだまま、倫太郎の隣に居ついていた。


「なんせ東照神君様のお血筋が、ぷっつり絶えちまったんだ。元禄の頃ならお家改易の天下の一大事でさ。それで御三家のお殿様のうち、どなた様かが継ぐことになったとかで、年の順番から尾張様じゃねえかって」


 家康の子を藩祖とする御三家の格は、長幼の序で尾張、紀伊、水戸となる。


「ま、水戸様は、天下の副将軍なんで、将軍様にはなれねえ決まりなんだそうで。ならば尾張か紀伊かって」

「随分と詳しいねえ、留蔵殿は」

「いやもう、瓦版よみうりの受け売りなんでさあ」


 目の前で手を振る。

 倫太郎は聞き上手だ。留蔵親分も、つい余分に話し込んでしまう。


「おまいさん、ほら、どいとくれ。二木様の饂飩がのびちまうよ」

 お鯉は切れ長のまなじりを上げて、亭主を軽く睨んだ。

「すまねえな、お鯉」

「謝ることないのに。あんた、本当にいい人ねえ」


 お鯉は、婀娜な美形だ。年も、留蔵より一回り若い。ふた回りに見えるのは、留蔵の所為だ。


 お鯉は手際良よく、茹で上げた饂飩と熱々の汁、青葱と胡麻、青菜の茹でたのを並べていく。この青菜が絶品だった。色よく茹で上げ、出し汁に浸しただけなのだが、歯応えと塩加減がほどよく、いくらでも入った。


「あたしも、よく覚えてますよ。尾張のは、相当ケチな性分だっていうんで、連日もう大騒ぎ」

「今の吉宗様も、と聞いてるよ」


 倫太郎は一箸すすって、満面の笑顔になる。


「今日も美味いなあ」

「お気に召してようございました」

 お代わりをどうぞ、と笑み返す。


「同じケチでも米公方様は、ご自身も随分と質素にお暮らしだって言うし、思い切ったことをおやりになるし」


 直訴箱の設置や小石川養生所の設立、慣例を破った人材の登用など、型破りな吉宗は、江戸っ子に人気が高い。


「あたしは、暖簾を下げて来ますから、お酒がなくなったら呼んでくださいな」

「おう、ありがとよ」


 丁度客足が絶えたので、早仕舞いするという。お鯉の背中を見送って、留蔵はわずかに声を落とした。


「ご足労頂きまして、申し訳ございやせん」

「馳走になって、すまないね。お鯉どのの料理は美味いなあ」

 へへと鬢を掻き、留蔵は声を落とした。

「ご存知の通り、堤の旦那が鬼の霍乱で、あと二、三日は使いものにならねえ」


 話し出したのは、洲崎で見つかった死人についてだった。


「年恰好は、丁度二木様ぐらいでさ。おっと、縁起でもねえことで」

「構わないよ。ほかになにか変わったことはあったのかい」


 体つき、手指の様子から百姓ではないようだという。剣だこもなく、柔らかな筆だこから、祐筆を生業とする町人か、還俗した坊主あたりではないかと留蔵は言った。


「それよりも、顔がこう」

 ちらりと倫太郎を見遣るが、健啖さに変わりはない。

「こう、……ひどく焼かれちまって、てんで人相がわからねえんでさ」


 ぐっと、喉が鳴った。


「続けてもよろしいんですかね」

「ああ、構わないよ」

 さすがに箸を置き、酒ではなく炒茶を一口。


「それでよくよく調べたら、死因の傷は前から心の臓を一突き。ためらい傷ひとつござんせん。こうやって」


 と、短刀を下から突き刺す仕草をする。


「刺されたようで、見事な手際だと小石川の医者先生も仰るほどなんでさ」


 倫太郎は、小首を傾げた。


「顔を焼いて身元を隠したのに、捨て場所は洲崎。しかも参道沿いだというんだね」

「へえ、仰る通りで。恨みつらみで殺したんなら、決して傷は一つじゃねえでしょう。仏を隠したけりゃ、おもしを付けて海に沈めりゃいい」


 広く遠浅の海岸には、漁へ出る小舟が五万と繋いである。


「しかも、二木の旦那。仏は垢ひとつねえほど小綺麗で、御召し物はときた」

「なるほど」

 つまり、普段着ではない。もしくは、

「殺しに手慣れた下手人が、富裕な家の若者を殺し、その身元を伏せながらも、屍だけは見つけさせたいと、洲崎に遺棄した」


 留蔵は、深く頷く。


「仰る通りで。だが、筋が通らねえ。だから、素人の殺しとは違う。で、なんとなくこいつは、やばい──そう、感じるんでさ」


 ちらりと賄所のお鯉へ目を遣る。もう一本つけるかどうか仕草で問うのへ、留蔵は軽く頷き返した。


「それで堤さんは、私に何をしろと仰っているのですか」

 倫太郎は、名残惜しそうに最後の饂飩をすすった。




「ロウコウにキョを定めるってやつだって」

「陋巷に居をさだめる、です」


 深川門前町一丁目の花六軒長屋である。東西にある井戸の奥の方、東の井戸端で篠井里哉とおふくがしゃがみ込んでいた。

 二人とも桶を持ち、持ってはいるが手は動いていない。二人の間にあるのは、洗いかけの箸や椀、桶からはみ出しそうな大根葉だ。身体によいとお凛の勧めで、真慧しんねが工夫した。乾物を入れて炊くとまあまあ美味い。甘辛く煮て、いつも膳に乗る。


「だから、そのロウコウだって言って、おたねちゃんが大変なのよ。もう、絶対に倫太郎様にお会いしたいって」

「私が聞きたいのは、どうしてそうなったか、です」

「どうしてって、うちの長屋にいい感じの人がいるって」


 実家の向かい、幼馴染の伊勢屋のおたねと話しているうちに、いつの間にかそういう話になったらしい。


「いい感じって、誰ですか、それ」


 里哉は、ぶっきらぼうに訊く。青菜を冷たい水に漬け、ざぶざぶと洗い始めた。小さな虫がつくので、念入りに洗う必要がある。


「あたしだって見栄があるのよ。十六にもなって、好いたひと一人いないって、恥ずかしいじゃない!」

「恥ずかしくなんか、ありません」


 一言で返され、おふくはすっくと立ち上がる。


「嫁入り前の女の気持ちがわかるの、里哉さんに」

「わかりません」

「なら、黙ってよ」

「ならば、倫太郎様を巻き込まないでください」


 ばっさと一尺近い(三十センチ)大根菜を桶に戻し、里哉も立ち上がる。


「せめて、相手は私にしてください。おふくさんならわかっているでしょう!」


 倫太郎の難しい立場について言ったつもりだったが、おふくはただ、訝しげに眉を寄せた。


「せめて、里哉さん、に?」


 一語一語区切るように言って、ないない、と首を振る。


は、夢を見るのよ」

「なんですか、そのって!」

「ロウコウにキョを定めるようなお方じゃないと、だめなの! 里哉さんじゃ、隣の太郎兵衛みたいじゃない!」

「はあ????」

「心配しなくても、もうおたねちゃんは二度と連れて来ませんから。安心してくださいましな、!」


 おふくは桶を引っ掴んで、踵を返した。


「心配なんじゃありません。私は、当たり前のことを言ったまでです!」

「ふん!」


 無論、の物見高さが、それで済むはずもなかった。




(続く)






 

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