89話 酢と酒塩
「つまり堤さんは、わたしに下手人探しを手伝え、と仰っているのですね」
「まあ、はっきり言やあ、そんなところだ。──ああ、畜生」
南町奉行所の町廻り同心、堤清吾は背を丸め、目の前の卵酒をちびちび舐めては、鼻をつまんで悪態をついていた。
堤と知己を得たのは、昨春、出府して間もない頃、同じ長屋の浪人者原賢吾が巻き込まれた事件である。
その後も、ちょくちょくと手伝いを持ちかけられて、なんだかんだとつかず離れず関わり続けている。
今日呼び出されたのは、日本橋武部小路を一本入った借家である。住居の主人、よろず屋吉次は留守らしい。いつもは整然と片付いている座敷が、散らかり放題だ。
「それにしても、ひどい風邪を引き込みましたね」
「朝っぱらから、海っ端に
と、懐から出した手拭いで、鼻のあたりを拭う。
「まあ、それもあって、吉次にはちょいと遠出してもらっている。で、その留守を
吉次がいれば、「羽を伸ばしている」の間違いだろうと、例の澄ました笑を浮かべて言うだろう。因みに、堤清吾の老母は、かなりの賢婦らしい。
「そんなわけで、吉次もいねえ、俺もこんな様子。留蔵ひとりじゃ心許なくてな」
倫太郎は、にこにこと「それは大変ですね」と言って、勝手知った台所から湯呑を拝借し、持参の酒徳利から二つ注いだ。
「実は、私も堤さんにお尋ねしたいことがあるのです」
「剣呑だな」
堤がそう言うには理由がある。昨年、上司である南町奉行大岡忠相から、倫太郎の身辺調査を命じられた。
理由はわからない。上申した調書がどこへ消えたのか、誰が、何故だったのか、一切知らされていない。
目の前の若者は、見るからに育ちが良さそうだ。しかし、隙のない身のこなしは、相応に武芸を修めていると察している。親伝来の浪人だというが、暮らし向きに困った様子もない。つまり、胡乱な人物であることに代わりはない。
一方、関わるなという命も受けていなかった。成り行きとはいえ、倫太郎の人柄が気に入って、なに食わぬ顔をして付き合い続けてきた。
「ならばまず、二木さんの話を聞こうか。そうすりゃ、こっちの頼みも断りずらいだろう」
柔和な笑顔のままだ。
「大したことではありません。例の神田の妻戀稲荷です。最近、ご落胤騒ぎで賑やかなようですが、その後、どうなっているかと思いましてね」
「え、ここ? ここなの?」
「うふふふ。ここ」
若い娘がふたり、花六軒長屋の木戸で騒いでいる。
ひとりは
いまひとりは同じぐらいの年頃ながら、ぼっちゃりとしたおとなしそうな娘だった。小袖も帯も似たような鼠色で、おふくの背に隠れるように立って、長屋の奥を覗いている。
「おふくさん、お知り合いですかい」
通りがかった木戸番の才助は、やはり江戸篠井の一党である。一見、人のよい親爺にしか見えない。
「
おふくの実家、福籠屋の斜め向かいにある小さな店だ。おたねが継げば三代目となるが、場所柄、足袋屋ではあるが古着屋のようで、手甲脚絆から道中着一切、草鞋から袋足袋までを商っている。
おたねは耳まで赤くなると、ぺこりと頭を下げた。
「一体どうしたんですかい」
おふくの住居へ行くでもなし、帰るでもなし。
「ね、才助さん。倫太郎様は?」
「
「ええっ、里哉さんか」
「私が、どうかしましたか」
おふくは、ぎょっとして振り返った。桶を抱え、襷掛けの篠井里哉が、いつの間にか立っている。
里哉は、おふくより一つ年上の十七だ。元服した大人ではあるものの、鼈甲縁の眼鏡越しのくるくる
「おふくちゃん」
くいくいと肘でつつかれた。
「この方? この方が、おふくちゃんのいいひと?」
「ち、違うわよっ。こ、これは里哉さん!」
これ呼ばわりされ、里哉は眉間にしわを寄せる。
「あのね、里哉さん。倫太郎様は、いつお戻りになる?」
普段のおふくらしからぬ品を作って、目を瞬く。その後ろでぽっちゃり娘が、恥ずかしそうにもじもじしている。
里哉は訳がわからず、
「わかりません」
思わず、素っ気なくなる。
「もうじき、お帰りかしら、ねえ」
忙しく瞬く。
「本当にわからないのです。倫太郎様に用があるなら、私が伺います。それより、なにを先ほどからくねくねしているのですか。目にごみでも入ったのなら……」
「なんですってっ!?」
おふくは、柳眉を上げた。
「おたねちゃん、こっち! あたしんとこ行くわよ!」
溝板を踏み抜く勢いでおたねの手を引くと、音をたてて腰高障子を閉めた。
「……なんですか、あれ」
「さあ」
才助と首を傾げた時、捨て鐘が三度聞こえてきた。耳慣れた、本所横堀の時の鐘だ。
里哉は襷をはずし、空模様を見上げる。
「なんだか雲行きがあやしいですね。遅くならないうちに、青物屋へ行ってきます。倫太郎様が戻られたら、そう伝えてください」
「へい、お気をつけて」
おふくの住居からは、賑やかな娘二人の声がもれ聞こえてきていた。
男は文机に向かい、筆をとった。牛玉宝印の誓詞である。裏返し、
──誓
と、記す。
記した筆先が震えていた。
──奸臣討つべし。
勢いよく消し、
──奸賊
と、した。
その筆先がさらに震える。
──奸賊、討つべし。
男は、奸賊の悪行を並べ立てた。一息に書き上げ、肩で
気をおさえ、最後におのれの名と花押を記した。そして小柄を抜くと左手の爪元をわずかに切る。
膨れ上がった血玉を、ゆっくり、ゆっくり擦り合わせ押し当てた。
男は幾度か読み返すと、血判誓詞を文机に置いた。にじり下がり、深々と拝跪した。
どれほど床に額を付けていただろうか、姿勢を正すと、無人の座敷を眺め渡した。
未練はない。
灯りを吹き消した。
その晩、麹町の尾州徳川家中屋敷のお長屋から、ひとりの男と一丁の鉄砲が消えた。
(続く)
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