88話 燎原の火
夕闇せまる江戸の町を、ひゃらりひゃらりと
紙束と竹の棒。その後ろから、樽を持った小男がつき従う。篠笛がひとり、太鼓と鉦と三味線と、狐面の歩みにあわせて、ちんとんしゃんと囃し立てた。
男も女もなにごとかと足を止め、瓦版売りをとり囲む。十重二十重となった頃、
「置きな」
と、狐面は竹棒で小男の肩先をつついた。樽を置き踏台と這いつくばる。とんと飛び乗ると、人垣を眺め渡して満足げに頷いた。
「さてはご覧じろ、皆の衆!」
場違いなほど朗々と響いた声に、どっと笑い声が起きた。鎮まるのを待って、狐面は暮れゆく天を指す。
「瓦版は、一分の
あったりめえだと野次が飛ぶ。
「ならば、ご落胤の若殿さまの噂は聞いてるかい」
見物人の顔、ひとつひとつを眺め渡していく。
「そうさ、そいつさ。だがな、おいらは親切だから、わざわざ教えてやる。だから、うちの刷物、買ってけよ」
紙束を示すと、どっと沸く。
「そもそも、始まりは紀伊の国だ。さる若殿さまが、
ひとつ鉦が鳴る。
「江戸は、闇ん中だ」
狐面は片手を丸めるて片足を上げ、「けん」と鳴き見せた。笛と太鼓がテケテンと追う。
「裏にまわりゃあ、貧乏人は借金のかたに娘を売りとばし、女衒は大儲け。毎日あくせく働いても、ちっとも楽にはなりゃしねえ。大店の旦那衆はやりたい放題。二本差しにはやられっぱなし。
間合いを取る。
「で、この若殿さまだ」
鉦の音。
「おかわいそうなお育ちなのに、なんともお偉いお方でね。こんな世の理不尽をどうにかできねえものかと、南無八幡大菩薩と神仏に願掛け、祈ったんだ」
連打に笛が鳴る。季節外れの幽霊でも出てきそうだ。
「水垢離に滝修行、日々精進していると、ある日、守り本尊の小さな摩利支天からお告げがあった。ああ、ちょいと水をおくれ」
小男が、腰に下げた水筒を渡す。狐面は仰き、喉を潤した。手の甲で口を拭う。
「民を助けよ! いまこそ世直しの時ぞ!」
大音声に、端の方で驚いた赤子が泣き始める。
「とまあ、若殿さま。一念発起して賊となり、世直しを始めたってえわけだ」
「嘘こくな!」
「なんで賊なんだよ!」
やんややんやと場が盛り上がる。
「ああ、そうだね。賊って言ってもちんけなこそ泥じゃねえ。義賊におなりだ。しかも、あれさね。神田の妻戀稲荷。あそこのお狐さまを知らねえお人はいるかい?」
首を振る者、目を輝かす者。ざわり、ざわりと囁き合いながら、幾本もの指が狐面を指差していく。
「そうさ、そうだよ、あのお〈狐〉様だ。ご落胤の若殿さまが、あの閻魔の狐に関わりあるのさ。そもそも、この若殿さまがどなたのご落胤で、どうして賊になったのか。ことの些細はここに書いてある。さあ、持っていきな。燃やされねえうちに、今のうちに買ってきな!」
と、男は紙束を掴んだ。そのまま茜に染まる天へ放つ。
わっと人垣が広がり、舞い落ちる瓦版を、われ先にと奪い合い始めた。
「あたしのだよ!」
「見せろ、見せろ!」
這いつくばって押し競饅頭で奪い合う。その間に、瓦版売りは煙のごとく消え失せて、西の方、寝ぐらへ帰る鴉が鳴くばかりであった。
「──なんだ、そりゃ」
うんざりと言ったのは、僧形の
時刻は子の刻(午前零時)近く。寝静まった花六軒長屋であった。
倫太郎と篠井里哉、そしておなじみの真慧とお凛の四人が、一枚の
「義賊〈閻魔の狐〉は、将軍様のご落胤なのか──こりゃ、誰でも飛びつくわ」
患者からもらったと、持ち込んだのはお凛だった。
と、ほとほとと触れるほどの音がして、お登勢、おふく親子が姿を見せた。
「夜分にすまないね。上がってくれ」
「とんでもございません」
お登勢は、日本橋通旅籠町でこじんまりとした旅籠を営む女主人だ。一人娘のおふくとともに、影日向となって倫太郎を守る、江戸篠井の一党でもあった。
「こりゃ、あいつの悪事だろうよ」
「音哉でしょうか、やはり」
二子の兄である篠井里哉は、見るからに鎮痛な面持ちで言った。
里哉は、江戸篠井の頭領、篠井児次郎の長子である。音哉は、その二子の弟にあたる。
篠井の一族は、紀州徳川家の忍び
「あれから半年も経ってないじゃない」
と、お凛。
賞金十両をかけた〈謎謎百万遍〉で、弟に拐われかけた里哉でもある。
「〈狐〉と倫太郎を結びつけるような奴は、おまえの弟ぐらいだろう」
「……はい」
「甲之助」
倫太郎が、それとなく真慧を制した。
閻魔の狐とは、昨今密かに世を騒がす義賊のことだ。
神田の妻戀稲荷に願掛けすれば、お上が糺せぬ怨みを晴らしてくれる。その〈狐〉本人が、里哉の行方不明だった弟、音哉だったのである。
倫太郎は、床におかれた
狐面を片手に、悪鬼を踏みしめ見栄を切っている。そして、「よなおし」の大きな見出し文字。
「この瓦版売りですが、夕刻に限らず、市中のいたるところに現れているようで、巧みな言説で引きつけ、刷物を撒いて拾わせて、その隙に姿を消すようです」
「はなから売る気はねえな」
「おそらくは」
「なんかねー。この狐面の男、あたし達の間で人気があるのよ。
「おふく!」
嗜めるお登勢に、真慧がにやにやする。
「お登勢どの、この瓦版売りの人相はわかりましたか」
「今のところ、若い男としか。ただ、身の丈は六尺(一八〇センチ)近いかと」
「ならば、音哉ではなさそうです」
里哉は、ほっとしたように言った。おのれも弟も小柄なほうである。
「ほかに見聞きした者はいませんか」
「倫太郎様、特にこれといって。なので、供連れの囃子方から当たってみようと思っております」
「それから、倫太郎様」と、お登勢は声を下げる。「くれぐれも身辺にお気をつけ遊ばすようにと。また、無茶はされぬようにと、お二方よりご伝言を賜っております」
お二方とは、里哉の父であり、倫太郎の母方の叔父でもある、篠井児次郎だろう。そしてもう一方は、御側御用取次の加納久通に相違ない。
「承知している、と伝えておくれ」
「それ、ほんと?」
「これ、おふく!」
「だって、倫太郎様が大人しくしているって思えないし」
「だから、おまえを
「あー、倫太郎、あたしそろそろ寝るわー」
「すまないね、お凛」
「牛若ぁ、夜遅く倫太郎を悪所に連れ出すんじゃないぞ。あと、子供はさっさと早く寝ろ」
二の腕まで見せて、大欠伸だ。
「お凛どの、私は子供ではありません!」
けらけらと笑いながら、戸が閉まる。
ああだこうだ言い合いながら、福籠屋親子はおふくの住居へ戻っていく。今夜は、こちらへ泊まりらしい。
最後に腰を上げたのは真慧だった。
「見せたいものがある。ちょっと来てくれ」
外へ出ると、皓々と月が照っていた。夜気が、肺の腑に刺さるようだ。
おのれの住居を通り過ぎ、井戸端まで行ってようやく口を開いた。
「年末に、加納の爺さんから言われたんだろう」
「ああ」
何を、と問わずともわかっている。
「ならば、急げ。この一件、どうもきな臭い」
「──そうだな」
「決めるのは、おまえだ」
それだけ言って倫太郎の肩を叩くと、真慧はひとり踵を返した。
(続く)
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