86話 初春寿ぎて
明けて享保十三年戊申、睦月元旦──。
江戸は、雲ひとつない快晴である。
掃き清められた通りは、しんと静まり返って、除夜詣の喧騒が嘘のようだ。もくもくと
一方、お武家の忙しさは格別だ。早朝から御城へ出仕して挨拶廻り。その後も彼方此方と上役巡りに暇はない。相手が居ようが居まいが、行ったことこそ肝要であると、世の変わらぬ気遣いである。
さて、舞台はその江戸の川向こう、深川門前町一丁目の花六軒長屋であった。
富岡八幡の参道から一本入って、さびれた稲荷社の脇を折れたくねくね道。やけに頑丈な木戸の奥には、割長屋が続く。
その割長屋の北側、並ぶ六軒の真ん中。二階というより二層となった住居の上。
本編の主人公
昨夜は同じ長屋の住人
「倫太郎様、お目覚めですか」
「いま下りるよ」
飛び起きて着替え、夜具に枕屏風を立て回す。梯子のような階段が、ひやりと足の裏へ吸い付いた。
「新年おめでとうございます」
笑顔で迎えたのは、倫太郎の侍者であり、母方の従弟でもある篠井
「うん、おめでと……う」
ぎょっと眺め渡す。
「よお、やっと起きたな」
「倫太郎さま、お、め、で、と、う、ございまーす!」
「りんたろー、おめでとー」
「おめでとう存じます」
座敷は、すでに宴会だ。
竈の前では、破戒坊主の
晴着姿のおふくは、母親のお登勢と七段のお重を開いて小皿に分け、女医者のお凛は丁度、大欠伸で里哉の夜具へ潜り込んだところだ。
さらに、小石川養生所の医師森島四郎に、御用聞きの留蔵、お凛の兄燿太郎と深川芸者の勝弥、美男のよろず屋吉次までが加わって、狭い座敷は足の踏み場もない。
「申し訳ありません。みなさん、どんどん上がってこられて……」
「はい、ごめんなすって」
恐縮する里哉の脇を、木戸番の才助が大きな酒徳利を抱えて注いでまわる。
倫太郎の手にも椀と箸が渡され、江戸前の雑煮は、ほかほかと湯気がたって大層美味そうだ。
「いいか。江戸の雑煮は味噌より
「真慧殿、丸餅もいけますぞ」
「うるせえ」
まぜっ返しにお玉が飛ぶ。
「倫太郎さま、こっち!」
おふくに呼ばれ、椀を抱えたまま、どうにか空いた隙間へ座り込んだ。
「お口に合えばよいのですが」
と、お登勢が豆と煮染めの皿を渡す。
「作ったの、おっかさんじゃないから安心して」
「おふく!」
お登勢は、日本橋
「才助さん! こっち、倫太郎様へも注いでちょうだい」
「へいっ」
御用聞きの留蔵がかしこまって頭を下げる。
「二木様、あけましておめでとう存じます」
「堤様はお見えにならないの」
北町奉行所の定町廻り同心で、留蔵の八丁堀の旦那である。
「そりゃ、おふくさん。さすがにうちの旦那でも、今日はお上役の挨拶まわりでさあ」
与力だけでも、南北奉行所を合わて五十家はくだらない。
「実はわっちも、明日の仕込みの手伝いがあるんですがね。こいつを」
と、酒徳利を掲げ、
「みなさんへお届けしてくれと、旦那に頼まれまして。ついでにこれはうちのやつから」
大根の膾を詰めた折を出す。
留蔵の恋女房は、やはり深川で小料理屋をやっている。鬼瓦のような留蔵にはもったいないほどの美形であった。
「そういや、うちのお鯉が心配していたんですがね」
と、小声になった留蔵だが、すでに首のあたりまで真っ赤だ。
「最近妙な噂があるんで、二木様がお困りじゃないかって」
「妙な噂、ですか」
「へえ。面白え話なんですがね」
「倫太郎様に関係ある噂なのですか」
襷がけで椀を片付けながら、里哉が尋ねる。ほんのり頬が赤い。縁起ものとひと舐めしただけなのだが、目元口許が笑っていた。
「とんでもねえ。二木様とは、まったく関わりねえ話なんですがね、お鯉が言うには」
──二木様って妙にこう、お品のあるお方だから。
ということらしい。
「どんな噂です」
留蔵は、緩んだ口元のまま胸を張った。
「ご落胤とか」
誰かが咽せた。
さらに声を落とす。
「お父君はさる高貴な御方で、下々でこっそりお暮らしになりながら、お目通りの時を待っているとか、なんとか」
「それじゃ、まるで芝居の口上ではないですか」
養生所の森島四郎は、端から信じていない口調だ。
留蔵は、さらに声を落とした。
「それだけじゃないんでさ。下々でお暮らしになりながら、お父君のため悪人退治をしているとかで、例の」
と、留蔵はぐるりと見渡す。
「〈狐〉、でがす」
「きつねって」
「まさか、閻魔の狐、ですか!?」
里哉の声がひっくり返った。留蔵が深く頷く。
「飲兵衛のくだらねえ噂話し、ですがね」
目がきょときょとと動く。口元までむず痒いようだ。
「留蔵さん、まだその続きがあるんじゃないの」
羽織芸者の勝弥こと、お勝が万事心得てたとばかりに笑み促した。、
「いやあ、勝弥姐さんにはかなわねえな」
留蔵は鬢を掻いて、
「実は、このご落胤様。こともあろうか当代公方様、吉宗様のお
「そんな馬鹿な!」
叫んだ里哉は、五つ重ねの椀を盛大に床へ落とした。
「お奉行、近頃町方で妙な噂が流れておりましてなあ」
同日夜分、南町奉行所である。
寝静まった役宅の居室で、南町奉行大岡
小原は、もともと大岡家の家人だった男で、細くなりかけた髷の、のんびりした風情の人物だ。
「正月から勿体つけるな」
「廻り方から小耳に挟んだのですが、これがなかなかに厄介で」
廻り方とは町奉行の同心のうちで、市中の治安警備を担う定町廻り、臨時廻り、隠密廻りを言う。
「小十郎がそのように申すとは、一体どのような噂だ」
若い時分と異なり、日々御役に追われ、世情には疎くなるばかりだ。忠相にとって小原は、下々に通じた頼もしい耳目であった。
「ご落胤でございます」
「どなたの、だ」
忠相は、筆を動かしながら問い返す。そう珍しいことでもないのだ。
「はあ、なんでも上様の」
「小十郎!」
忠相は、驚いて家人を振り返った。
「上様がお部屋住みであらせられたみぎり、御殿女中にお手をつかれ、孕ませたお子だそうです」
「口を慎め!」
「ははっ」
形だけ畏まってみせる。が、すぐに頭を上げ、
「求馬様、そのお胤が成人し、父君へお目通りを願って、いま江戸に潜んでいるんという噂でございます。しかも、それだけではなく──」
忠相は、唸った。
(続く)
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