86話 初春寿ぎて

 明けて享保十三年戊申、睦月元旦──。


 江戸は、雲ひとつない快晴である。

 掃き清められた通りは、しんと静まり返って、除夜詣の喧騒が嘘のようだ。もくもくと湯屋ゆうやばかりが煙を上げている。


 一方、お武家の忙しさは格別だ。早朝から御城へ出仕して挨拶廻り。その後も彼方此方と上役巡りに暇はない。相手が居ようが居まいが、行ったことこそ肝要であると、世の変わらぬ気遣いである。


 さて、舞台はその江戸の川向こう、深川門前町一丁目の花六軒長屋であった。

 富岡八幡の参道から一本入って、さびれた稲荷社の脇を折れたくねくね道。やけに頑丈な木戸の奥には、割長屋が続く。どぶを挟んで南北に六軒ずつ。厠が二つと井戸も二つ。南通りに面した小店が三軒で、裏はなぜか菜葉畑が青々と。その真ん中に、冬枯れた見事な枝振りの桜が一本。


 その割長屋の北側、並ぶ六軒の真ん中。二階というより二層となった住居の上。

 本編の主人公二木ふたき倫太郎は、夜具の中で手足を伸ばし、「うーん」と唸った。


 昨夜は同じ長屋の住人真慧しんねに誘われ、洲崎堤防で新年を迎えた。極寒の海風に吹かれて日の出を拝み、湯屋へ寄って初風呂を貰う。さすがに眠気には勝てず、一眠りして目覚めたところであった。


「倫太郎様、お目覚めですか」

「いま下りるよ」


 飛び起きて着替え、夜具に枕屏風を立て回す。梯子のような階段が、ひやりと足の裏へ吸い付いた。


「新年おめでとうございます」


 笑顔で迎えたのは、倫太郎の侍者であり、母方の従弟でもある篠井里哉さとや。年は十六。否、明けて十七。すでに元服しているものの、鼈甲縁の眼鏡がどんぐりまなこに愛らしい。


「うん、おめでと……う」


 ぎょっと眺め渡す。


「よお、やっと起きたな」

「倫太郎さま、お、め、で、と、う、ございまーす!」

「りんたろー、おめでとー」

「おめでとう存じます」


 座敷は、すでに宴会だ。

 竈の前では、破戒坊主の真慧しんねが大鍋をかき回し、その横で八卦見の小川陽堂が餅を焼いている。

 晴着姿のおふくは、母親のお登勢と七段のお重を開いて小皿に分け、女医者のお凛は丁度、大欠伸で里哉の夜具へ潜り込んだところだ。

 さらに、小石川養生所の医師森島四郎に、御用聞きの留蔵、お凛の兄燿太郎と深川芸者の勝弥、美男のよろず屋吉次までが加わって、狭い座敷は足の踏み場もない。


「申し訳ありません。みなさん、どんどん上がってこられて……」

「はい、ごめんなすって」

 恐縮する里哉の脇を、木戸番の才助が大きな酒徳利を抱えて注いでまわる。

 倫太郎の手にも椀と箸が渡され、江戸前の雑煮は、ほかほかと湯気がたって大層美味そうだ。


「いいか。江戸の雑煮は味噌より清汁すましじるだ。うちは小松菜と大根と芋だな。で、柚子を添える。無論、餅は角餅だ」

「真慧殿、丸餅もいけますぞ」

「うるせえ」

 まぜっ返しにお玉が飛ぶ。


「倫太郎さま、こっち!」


 おふくに呼ばれ、椀を抱えたまま、どうにか空いた隙間へ座り込んだ。


「お口に合えばよいのですが」

 と、お登勢が豆と煮染めの皿を渡す。

「作ったの、おっかさんじゃないから安心して」

「おふく!」


 お登勢は、日本橋とおり旅籠町のちいさな宿屋兼忍び宿、福籠屋ふくろうやの女主人だ。

「才助さん! こっち、倫太郎様へも注いでちょうだい」

「へいっ」


 御用聞きの留蔵がかしこまって頭を下げる。

「二木様、あけましておめでとう存じます」

「堤様はお見えにならないの」

 北町奉行所の定町廻り同心で、留蔵の八丁堀の旦那である。


「そりゃ、おふくさん。さすがにうちの旦那でも、今日はお上役の挨拶まわりでさあ」

 与力だけでも、南北奉行所を合わて五十家はくだらない。

「実はわっちも、明日の仕込みの手伝いがあるんですがね。こいつを」

 と、酒徳利を掲げ、

「みなさんへお届けしてくれと、旦那に頼まれまして。ついでにこれはうちのやつから」

 大根の膾を詰めた折を出す。


 留蔵の恋女房は、やはり深川で小料理屋をやっている。鬼瓦のような留蔵にはもったいないほどの美形であった。


「そういや、うちのお鯉が心配していたんですがね」

 と、小声になった留蔵だが、すでに首のあたりまで真っ赤だ。


「最近妙な噂があるんで、二木様がお困りじゃないかって」

「妙な噂、ですか」

「へえ。面白え話なんですがね」

「倫太郎様に関係ある噂なのですか」


 襷がけで椀を片付けながら、里哉が尋ねる。ほんのり頬が赤い。縁起ものとひと舐めしただけなのだが、目元口許が笑っていた。


「とんでもねえ。二木様とは、まったく関わりねえ話なんですがね、お鯉が言うには」


──二木様って妙にこう、お品のあるお方だから。

 ということらしい。


「どんな噂です」

 留蔵は、緩んだ口元のまま胸を張った。 

とか」

 誰かが咽せた。

 さらに声を落とす。

「お父君はさる高貴な御方で、下々でこっそりお暮らしになりながら、お目通りの時を待っているとか、なんとか」


「それじゃ、まるで芝居の口上ではないですか」

 養生所の森島四郎は、端から信じていない口調だ。

 留蔵は、さらに声を落とした。


「それだけじゃないんでさ。下々でお暮らしになりながら、お父君のため悪人退治をしているとかで、例の」

 と、留蔵はぐるりと見渡す。


「〈狐〉、でがす」

「きつねって」

「まさか、閻魔の狐、ですか!?」

 里哉の声がひっくり返った。留蔵が深く頷く。

「飲兵衛のくだらねえ噂話し、ですがね」


 目がきょときょとと動く。口元までむず痒いようだ。


「留蔵さん、まだその続きがあるんじゃないの」

 羽織芸者の勝弥こと、お勝が万事心得てたとばかりに笑み促した。、


「いやあ、勝弥姐さんにはかなわねえな」

 留蔵は鬢を掻いて、

「実は、このご落胤様。こともあろうか当代公方様、吉宗様のおたねだって言うんで、お鯉のやつ、舞い上がっちまって」

「そんな馬鹿な!」


 叫んだ里哉は、五つ重ねの椀を盛大に床へ落とした。





「お奉行、近頃町方で妙な噂が流れておりましてなあ」


 同日夜分、南町奉行所である。

 寝静まった役宅の居室で、南町奉行大岡忠相ただすけと、内与力の小原小十郎が向かい合っていた。

 小原は、もともと大岡家の家人だった男で、細くなりかけた髷の、のんびりした風情の人物だ。


「正月から勿体つけるな」

「廻り方から小耳に挟んだのですが、これがなかなかに厄介で」


 廻り方とは町奉行の同心のうちで、市中の治安警備を担う定町廻り、臨時廻り、隠密廻りを言う。


「小十郎がそのように申すとは、一体どのような噂だ」


 若い時分と異なり、日々御役に追われ、世情には疎くなるばかりだ。忠相にとって小原は、下々に通じた頼もしい耳目であった。


でございます」

「どなたの、だ」


 忠相は、筆を動かしながら問い返す。そう珍しいことでもないのだ。


「はあ、なんでも

「小十郎!」


 忠相は、驚いて家人を振り返った。


「上様がお部屋住みであらせられたみぎり、御殿女中にお手をつかれ、孕ませたお子だそうです」

「口を慎め!」

「ははっ」


 形だけ畏まってみせる。が、すぐに頭を上げ、


「求馬様、そのお胤が成人し、父君へお目通りを願って、いま江戸に潜んでいるんという噂でございます。しかも、それだけではなく──」


 忠相は、唸った。





(続く)



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