幕間(六)
俺の
死んだおっかあが、今際のきわに俺の手を握って、りっぱな短刀と守袋を握らせながら明かしてくれた。
「玉之助や、あたしはおまえの本当の親じゃない。お
涙を流し、息も絶え絶えに語るはなしに、俺はあぜんとして目を瞬くばかりだった。
「できれば、玉之助や。ここへ留まり、静かに暮らしておくれ。澤乃井さまと、この母の菩提を弔いながら、それが澤乃井さまのお望みだ。おまえ……お玉や……」
そうして、育ての親はあっけなく死んでいった。
俺は短刀を抜いた。青く光る鋭い刃をじっと見つめた。研ぎたての鎌のように光って、吸い込まれそうだ。
お墨付きだという書付は、葵の御紋の立派な錦の守袋にある。俺は短刀を
少し黄ばみかけた紙には、太い字でなにかが書かれ、最後に大きく二文字。
信房。
無論、一文字も読めなかった。
それが将軍様、八代将軍徳川吉宗様のかつての名であると知ったのは、感応院の坊主に引き取られてからだった。
あれから十年余。俺はいま、俺の梵天様とともにある。
目指すは、江戸。海の彼方だ。
ごめん。ごめんよ、おっかあ。
鈍色の曇天は、泣くのか泣かないのか。今日もぐずぐすと濁ったままだ。
「良い加減、晴れて欲しいものです」
「今年は大雨と旱魃と、各地で百姓たちが難儀していると聞きます」
「左様でございます。しかし、江戸におりますと、平安なものですなあ」
とは言うものの、月中までにすでに二度、大火とならずも番町から麹町、愛宕下までが燃えている。
「なにか可笑しゅうございますか」
「角兵衛は、江戸詰が多かったと聞いているよ」
「お国入りの際は、常にお側近くに
少々むきになって答える老臣を聞き流し、倫太郎は空を見上げる。
「雪だ」
「もう、座敷へお上がりなさいませ。お寒うございましょう」
穏やかな、どこか古武士然とした相貌へ頷きかけ、倫太郎は障子を閉めた。設えた席を避けると、わざわざと下座へ着く。困り顔の老臣を尻目に、にこにこと笑っていた。
深川八幡
倫太郎の横で苦り切った顔をしているのは、加納
「先般、ご不例であったと聞き及びましたが、すっかりご本復の様子。角兵衛も安堵いたしました」
「耳ざといな」
なぜか、とは尋ねない。
「それよりも、わざわざ角兵衛が訪ねて来た理由を聞かせて下さい」
加納は頷くと、傍の塗箱を倫太郎へ示した。
刀箱のようである。脇差、もしくは短刀を納めるそれだろう。
加納は一旦恭しく頂き、倫太郎へ渡す。掛紐を解いて蓋をあけると、やはり刀袋に入った一振りの短刀──脇差であった。
「これは」
「相州貞宗の作と聞いております」
相州物のなかでも、名工中の名工の作だ。そのうちの一振りは、東照神君所縁の品として徳川宗家の家宝でもある。
自然、贈り主は誰であるか、明白であった。
「このようなもの、私の身に余る」
「差料とせずとも、ぜひ身近に、との仰せです」
倫太郎は、首を傾げたままだ。
「確か、紀州藩祖頼宣様が、お父君様より授かった品のうちの一つと憶えています」
有難いが、なおさら受け取るべきものではない。だが、加納に持ち帰る意思はないようだった。
倫太郎は、折れた。
「宜しく言上してください」
「大変喜んでおられたと、お伝えいたしましょう」
倫太郎は、困ったように笑むばかりだった。
「太っ腹のでかさが違うな」
法体の
深川門前町一丁目、倫太郎の住居である花六軒長屋である。
侍者の篠井
「正直、困るんだ。このような高価なものを頂いても、しまう場所に困るばかりだし、第一、ここには不釣り合いだ」
かつてのように屋敷で暮らしていたなら蔵もあるが、深川の町方の、しかも割長屋では置き場所にも困る。
「いっそのこと、売っちまおうか」
「それこそ、怪しまれるだろう」
蛇の道は蛇、などと言いながら売る算段を告げる真慧を尻目に、倫太郎は刀箱をさらに布で包み使い古しの箪笥へ押し込んだ。
「ま、唯一安心といえば、
長屋の住人は、その多くが倫太郎の知る辺か、倫太郎の母方の縁戚である篠井の息がかかった者たちだ。篠井は、もともとは紀州徳川家の
「で、加納の旦那は何だというんだ。わざわざ御大自らお出ましとは、ただそのことだけじゃねえんだろう」
「まあ、ね」
語ろうとする倫太郎を、一旦手で制した。腰高障子を開けて外を、縁側の障子戸を開いて北側の裏手を確かめる。
「大丈夫だよ」
「一応な」
「
謡うように言う倫太郎をじろりと睨み、無言で先を促す。
享保十二年丁未、師走──。
(第五章了・第六章へ続く)
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