85話 一路順風
「は、は、はぁぁぁ……っくさめっ!!」
盛大なくしゃみとともに、鼻をすすり上げた。
「医者の不養生を地でいくとは、さすがだな、お凛」
「う、うるひゃい」
部屋には火鉢が二本。掛けた鉄瓶で湯が沸いている。外に比べたら、なんともほっこり暖かいが、本人はありったけの夜具の中で丸くなっていた。
「うげっ。なに入れたんだ。葛根湯だろ!」
「さあね」
口直しに飴玉をしゃぶりながら、お凛は鼻を擤み、賑わう隣りへと聞き耳を立てる。
お凛の住居は、隣り合った二間だ。ひとつが診療所で、ひとつが寝床となっている。隣では、朝からずっと森島四郎が孤軍奮闘していた。見かねて手伝おうと出て行ったお凛を叱り飛ばし、
「心配か」
にやにや笑う。
「違う」
「このままだと、患者を取られそうだな」
「うるひゃい!」
げほげほと咳き込む傍らで、まめまめしく片付ける。湯呑みに白湯を注いで、汚れ物を脇に抱えた。
「また後で来るからな。大人しくしておけよ」
「倫太郎はどうだ」
布団の隙間からのぞくと、腰高障子に掛けた手を戻し、真慧は親指をくいくいと振る。
「大丈夫だ。お里坊がつきっきりだしな。そもそも真冬に大の字になってうたた寝なんざ、酔狂にもほどがある」
餓鬼の頃でもねえのに、とわざとらしい。
「それとも、お凛。とうとう本懐を遂げたのか」
飛んできた枕を掴み、放り返す。
「寝床で、二人で手を繋いでいたんだからなあ。ありゃ、面白い眺めだったぞ」
ひゃっひゃっと笑いながら開けると、眩しい朝陽が射してきた。
「倫太郎の方は薬が効いて熱が下がったようだ。隣のセンセは凄腕だから、おまえも依怙地はやめてさっさと薬を飲んで治せ」
「あたしは、蒲柳の質なんだよ!」
お凛は目を閉じて、夜具にうつ伏した。熱のせいか、水上を揺蕩うようだ。
ゆらり、ゆらり、ゆうらり。
ちんちんと鉄瓶が鳴る。障子越しに近所の悪餓鬼が、「おりんせんせ、オニのかくらんだって」と騒ぎながら通り過ぎる。
うとうとうと──お凛は睡魔に引き込まれていった。
一昨日の夕刻、お凛の兄燿太郎が花六軒長屋へ駕籠で乗り付けた。よろよろと這い出て倒れ込み、里哉が差し出す水を一息に飲み干すと「し、し、心中だ」と云う。
「心中?」
「倫太郎さんと、うちのお凛が……!」
まさかと笑い飛ばす真慧が、息も絶え絶え語る燿太郎に、真顔となっていく。
すぐさま猫屋新道の借家へ駆けつけた。とっぷりと日も暮れて、薄暗い座敷では布団に横たわる二人の姿。
「お、お凛……」
燿太郎は、土間から上がろうとしない。遠目におろおろと覗くばかりだ。
真慧は構わず上がり込み、二人の横にしゃがんで頬をつついた。
「しんね?」
目を擦りつつ、大欠伸で目を覚ましたのは云うまでもない。
「だって、死んだと思ったんだよう」
立ちはだかる三人の前で、燿太郎は上目遣いに呟き、二人は大風邪を引き込んだ。
次に目が覚ますと、枕元に誰かが座っていた。日差しで、夕刻が近いとわかる。
「
喉が痛い。
「私です」
寝返りを打って仰のくと、森島四郎が端座していた。生真面目な一文字の眉。
「今日の診察の記録です」
お凛愛用の大福帳だ。手伝いに通うようになって、几帳面な四角い文字でこと細かに記してくれる。
「ありがとう」
礼を云うのへ、
「具合はどうですか」
額に手を置いた。
「いい。薬を、ありがとう」
森島四郎は、にやりと笑った。すぐに表情を改める。
「あなたに話があります」
真剣な声音に起きあがろうとするのを、森島四郎は手で制した。腕を組み、太い眉を一文字に寄せる。どこか達磨に似ていた。
「やめました」
「なにをだ」
「お凛どのとの、見合いです」
虚を突かれた。
「喜ばないのですか」
「理由を知りたい。なぜ考えを改めた」
森島四郎は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「あなたを納得させられればよい。そうでしたね」
「ああ」
だからこそ、森島四郎は日々やって来たのだ。お凛とともに患者を診て、見立てを突き合わせて、最善の処方を考えた。
それを通してお凛は知った。おのれより優れた医者に間違いない。患者も大事にする。人としての器も大きい。
──敵わない。
しかし、森島四郎はこう続けたのだ。
「納得したのは、私です」
「期待外れだった、ということか」
「そうではありません」
「ならば、なんだ」
ふいと、壁を向いた。
「恥ずかしいのです。私はおのれの浅慮を思い知った。ここであなたと診療を続けるなかで、医術への思いと弛まぬ研鑽と、なによりも患者に慕われるあなたの姿を目の当たりにした。浅はかでした。あなたを説得できるなど、思い上がりも甚だしい」
壁へ淡々と語る。
「私が惚れたのは、ただの
だから、と四郎は云う。
「私はまず医者として、あなたとともに学び、ともに精進していくべきだ。それからです。そして、もし」
もし、と云い納め、四郎は目元を緩めた。お凛の枕元の湯飲みへ白湯を注ぎ足し、火鉢の具合を確かめる。炭を焚き起こして、半ばを灰に埋めた。
「明日からも、あなたが本復するまで毎日来ます。その後も手伝わせて下さい。私は、あなたとともに病と闘い続けたいのです」
「いいのか」
「はい」
「本当にいいのか」
「しつこいな。ならば、私と婚礼をあげますか」
お凛は、小さく含み笑った。
「わかった」
無論、破談となれば母や兄と一悶着あるだろう。それはそれで、なんとかなる。
「ありがとう」
「礼を言われることではありません」
「だな」
お凛は、もぞもぞと寝床に潜り込む。四郎は、ぽんぽんと夜具をたたいた。
「では、私はこれで。お凛先生、また明日」
「待て」
目だけを出して、お凛は引きとめた。
「おまえは友だ」
「友、ですか」
「ああ」
その言葉を吟味するように、四郎は一文字の太い眉を顰める。
溝板を踏む、
「では、明日」
気配が去る。夢心地で見送りながら、お凛はゆっくりと眠りの中へ落ちて行った。
(第五章・了)
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