84話 晴好雨奇

 お凛が十七になった年のことだ。


──遊びにおいで。

 長崎へ遊学中の兄、燿太郎から誘いがあった。どこをどう説得したのか、母はすんなり出してくれた。


 無論、一人ではない。次兄玄順の伴である。竹馬の友が目付として長崎に在る。在勤中に挨拶方々訪問し、最新の蘭方医学を見学したい──と云うのが理由口実であった。


 お凛は次兄に従い、生まれて初めて江戸を出た。道中含めて、おおよそ一年。破天荒かつ大志を抱いた旅の帰途、大坂で幼馴染の甲之助、そして倫太郎と再会した。





「お凛!?」

 馬乗りになって、倫太郎の袴の結目を解こうと悪戦苦闘している。

「じっとしていろ。さっさとしないと、燿太郎が戻ってくる」


 できた、と思った瞬間、くるりと身を返された。


「何するんだ!」


 必死で手足をばたつかせると、それ以上の力で抑え込まれる。掴まれた手首が痛い。


「離せっ!」


 こうがいが抜け落ち、乱れた髪の間から睨み上げる。倫太郎が困ったような、怒ったような顔で見下ろしていた。


「どうしたんだ、お凛。なぜこんなことをする」

「わからないのか」

「わからないよ。それほど縁談が嫌なら、私も手伝う。だけど、森島さんはよいお人じゃないか」

「あいつが悪いんじゃない。そう言うんじゃないんだ」

「なら、どうしてだ」


 倫太郎は、心底わかっていないようだった。


「お前が好き、なんだ」

「え?」

「あたしは、おまえが、好き、なんだ!!」

 なかば自棄だった。

「あたしは、おまえが好きなんだ! ずっと好きだった! 幼い頃から、ずっとずっとお前が好きだった! 萬年橋であたしを見つけてくれた時から、おまえのことだけを思ってきたんだ。お前が側にいると嬉しい。江戸へ戻って来てくれて嬉しい。おまえの役に立てて嬉しい! そうじゃなくても、井戸でおまえが顔を洗っていても、ともに飯を食っても、おまえが笑っているだけで、あたしは嬉しいし、眩しいし、でも、苦しくて堪らないんだ! ああ、もう、わかったか!!」


 倫太郎は文字通り、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で、ぱちくりと目を瞬いている。


「つまり……?」

「つまり、だと? つまりっておまえ、あ、あたしは本心、お前が、……二木倫太郎が恋しいんだって話だよっ!!」

 膝で蹴り上げた。

「ぐへっ」


 ちょうど鳩尾へ入ったのか、横に転がり呻いている。お凛は這い出し、慌てて覗き込んだ。


「だ、大丈夫か。倫太郎。すまん。つい」

「 大丈夫だ。油断……した」


 深く幾度か息を吐くと、倫太郎は身体を伸ばし、仰向けに寝転んだ。

 考えに耽っているのか、目を閉じて軽く眉を寄せている。寄せると云っても、森島四郎のようなではない。


 声をかけるのを気恥ずかしく、お凛もその隣に川の字で並んだ。しばらく無言のまま、天井の木目を数えていく。


 思いを告げた心地よさと、云ってしまった後悔と、果たして倫太郎がどう思ったのか。聞くのは惧い。


「お凛」

「なんだ」

「私は生涯、さいを持つ気はないんだ」

「うん。知っている」

「おまえのことは、好きだ。真慧しんねとともに、掛け替えのない生涯の友だと思っている。それどころか、迷惑をかけてすまないし、どう報いてよいのかもわからない」

 つまり。

「すまない」

 ふと、口調が変わる。

「ごめんよ、お凛。ほんとに、ごめん」

 倫太郎も天井を睨んでいた。お凛はぐるぐるの年輪を、もう一度最初から数え上げる。それから、一息に云った。


「いいんだ。気にするな。忘れてくれ」

 天井が滲んで、見えなかった。





 夢の中で、お凛は走っていた。

 師走の江戸の町だ。煤払いの箒を抱えた物売りや、歳の市の呼び込みの声。尻をからげた借金取りが、倍の速さで駆け抜けていった。通りを往来する大勢の人影をかき分けるように、前へ前へと進んで行く。

 どこへ行こうとしているのか、おのれの足取りは確かで、しっかり頭を上げている。


 ふと気づくと、雪が降っていた。

 小さなかけらが頬に触れ、瞬く間に溶けていく。

 どこをどう走ったのか。なぜ走っているのか。ただ、足裏のあまりの冷たさに立ち止まり、泥だらけのの素足を見下ろした。


「ここはどこだ」


 小さな橋の上だった。容易に乗り越えられそうな欄干と、こんもりした太鼓橋の橋桁。その下に淀んだ冬色の水が揺蕩う。


「ここは、どこだ」


 どん、といきなり花火が上がった。腹の底へ轟音が響き、真っ暗な夜空を東から西へと一条の火焔が流れた。


──どうしたの?


 ふと見ると、十ほどの子供が袖を引いている。

 お凛はしゃがみ込んで、目線を合わせた。

「おまえ、迷子か?」


──ねえ、なにを泣いているの。


 お凛は、おのれの頬へ指をやった。氷のような冷たさだ。


「ここは、寒いな」

──一緒に花火を見ようよ。

「ああ」


 欄干を抱えるように座り込んだ。足を橋桁から投げ出して、空を見上げた。


──うわあ。

「きれい」


 次は、虹色の仕掛け花火だ。川面いっぱいに輝いて、箒星のように光のかけらが尾を引いて流れていく。


──きれいだなあ。

「きれいだ」

──流れ星だよ。願掛けしなくちゃ。

「願掛け?」

──お凛は、なにを希むのだい。

「あたし?」

──うん。


 この時が続きますように。共にいられますように。なにも起こらず、無事過ごせますように。多くは望まないから。満たされなくてもよいから。ただ、いとしいあいつの側でいつまでも──。


──いいの?


 橋桁の下は、渦巻く闇だ。轟々と音がする。


──それで、ほんとにいいの?


 手に入らぬのなら、いつそのこと壊してしまおう。無くしてしまおう。見えなくなれば、消えてなくなればどれほどよいか。目を瞑れるのなら、どれほど。


──ご覧よ。きれいだね、お凛。

「ああ」


 子供と夜空を見上げる。降るような満天の星。


──ああ、そうだな。


 流れ星の欠片が、きらきらと足元に降って来た。お凛は、雪の中からつまみ上げた。透かすと、なかで小さな金色の粒が、ぐるぐると回っている。


「倫太郎、見つけたぞ!」


 振り返ったそこには、吹雪く花弁に聳え立つ、桜の大樹があった。






(続く)





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