83話 青天霹靂
「おまえ、馬鹿か?」
破戒坊主の
花六軒長屋の井戸端だ。卵雑炊の鍋を洗う真慧のあとをつけ、お凛はその脇にしゃがみ込んでいた。
「今朝、妙なことがあった」
「妙、とはなんだ」
「倫太郎に後光が射した」
「はあ?」
真慧は、まじまじと幼馴染の女医者を見返す。真剣な目つきに、念のため問い返す。
「神仏は、俺の範疇だぞ」
「違う!」
お凛は手元に目を落とし、指先を曲げては戻し、ことばを探す。
「今朝、倫太郎が来たんだ。お日さまを背負っていた」
真慧は手を止め、お凛と向き直った。流石にしゃがみ込んでいると寒いので、手を拭い、桶を置く。
「話してみろ」
いつものように、森島四郎が手伝いに来た。手土産の握り飯にかぶりついていたら、倫太郎が顔を出した。その背後から朝陽が射して、
「眩しかったんだ」
と、云う。
「それのどこが妙なんだ」
「光っていたんだ、倫太郎。あいつ、どこか悪いのかもしれない」
「はあ?」
「それとも、角のお稲荷さんに憑かれたのか」
目をうろうろと彷徨わせ、心底案じている風だ。
真慧は、暫し思案した。
「そこで待っていろ」
溝板を踏んで立ち戻り、二木倫太郎の住居へ消えた。
出て来た時には、当の倫太郎を引き連れている。
「どうした、お凛」
笑顔で軽く首を傾げる。幼い頃から変わらぬ仕草と穏やかな笑み。
倫太郎は、いつもこうだった。初めて会った幼い頃から、ただ真っ直ぐにおのれを見て笑う。
夏の夜。大川にかかる萬年橋の上だ。花火見物で兄たちとはぐれ、欄干につかまって震えていた。腹の底まで響く花火の音。黒い化物のような大勢の人の影。誰ひとり、おのれに気づいてすらくれない。ひたすら怖くて、叫ぶこともできなくて。
──どうしたの?
差し伸べられた、手。
「お凛?」
立ち上がる。黒板塀の奥へ、裏の畠地へ続く露路をずんずんと進む。下駄の下で霜柱が音を立てて潰れた。朴歯をなかば埋めながら、畦道をたどって冬枯れだ桜の大樹のもとに立つ。
満開の花吹雪。
「鈍さもここまでくると天晴れだな」
いつの間にか、真慧が背後に立っている。
「どうしたらいい」
「馬鹿だなあ、おまえは」
やわらかな声。
「うるさい。ばかばか云うな」
「この世のどこに、ただの幼馴染を守るために命を賭けるやつがいる」
「おまえ」
含み笑った。
「俺には理由がある。あいつは俺の
おまえは違うだろう、と。
振り向けば、真冬とて障子を開け放した建屋から、縁に立って此方を見ている。
すらりとした立ち姿以上に、笑顔が惜しい。ただ、惜しい。
お凛は、翔ぶ鳥を追うように目を眇めた。
(そうだ)
あたしは見ていた。気づくと、いつも追っていた。
倫太郎が笑う。あたしを見る。あたしも笑う。
「どうした、お凛」
なぜか涙が止まらない。
──あたしは。
善は急げ。
お凛の頭のなかで、その言葉が回っていた。ただ回っているというより、
このままではたぶん、おそらく、夜逃げでもしない限り、森島四郎の嫁にされる。両家が納得、しかも当の四郎はその気満々だ。
(夜逃げ、か)
患者を捨てて行くことになる。幾人もの長患いの顔が浮かぶ。看病で疲れた身内の縋るような目とともに。
(動けない)
──あたしは、医者だ。
ならば、どうする。
師走の雨は、明け方から霙となった。
お凛は、猫屋新道の燿太郎の借家にいた。両手を炬燵に入れ、背中を丸めて待っている。
兄は留守だ。留守にした。診療も早仕舞いして、此処にいる。
日暮れまでまだ一刻ほどあるが、厚い雲が切れ始めたのか、雨上がる気配があった。
「御免」
からりと戸口が開く。冷たい風が滲みてくる。傘を立てかけ、土間に立つ気配。
「お凛、いるかい」
「こっちだ、倫太郎。上がってくれ」
応えて、お凛はふうと息を吐いた。
準備はできた。役者も揃った。あとはやり遂げるのみだ。
足を濯ぐ音。程なく襖戸が開く。
「やあ、寒いね。燿太郎さんも居るのかい」
「出かけている」
燿太郎の炬燵は艶やかだ。女物を仕立て直して、
「座ってくれ。話がある」
倫太郎は少し首を傾げた。
「寒い。入れ」
もぞもぞと譲り合うと、笑顔になる。
「雨も上がりそうだ。道はひどいことになっているから、あまり冷えないとよいね」
お凛は、じっと倫太郎を見つめた。
今日は光っていない。
「笑ってくれ」
怪訝そうに眉が寄る。
「いいから、笑ってくれ。倫太郎」
「どうしたんだい。真慧が案じていたぞ。
どこか具合でも悪いのかい、と倫太郎はお凛の額に手をやり、首に手を回して引き寄せた。額と額がふれる。
「うん。熱はない」
倫太郎の眸が咲っていた。
途端、お凛は全身をかっと火照らせ立ち上がる。
奥の襖戸を開け、文字通り仁王立ちだ。
その足元には布団が敷き延べられて、そして、枕が──二つ……?
「お凛?!」
ぎょっとなったのは倫太郎だ。何が起こったのかと目をぱちくりとしている。
お凛は帯を解き、隅へと投げる。
「さあ、来い。据膳喰わぬは男ではない、と云うぞ」
倫太郎の衿元へ手を掛けるが、脱がぬとわかるとおのれが襦袢姿となる。
「ち、ちょっと待て、お凛!」
「
「待て、お凛。待ちなさい!!」
もつれあいながら二人して布団へ倒れ込む。お凛は馬乗りになって、抗わぬ倫太郎を押さえ込んだ。
幼い頃とは違う、かたい身体。いつの間にか伸びた背。それに比べて、おのれはなんと小さく華奢なことか。倫太郎がお日さまならば、おのれは何だ。
「お凛!」
お凛は、ずいと顔を近づける。
「頼む、倫太郎。助けると思って、あたしと契ってくれ」
「なんだって!?」
お凛は、倫太郎の袴の結目に手を掛けた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます