82話 四面楚歌
「で、おまえはどうしたんだい、お凛」
惚けた声で訊くのは、お凛のすぐ上の兄、四男燿太郎である。
佐々燿太郎は世に云う天才で、早くから神童と誉れ高いものの、血を見ると昏倒する質もあって家業を嫌い、いまでは好きな学問三昧の日々である。
本草学の先生として伊勢町の和薬種改会所へ呼ばれたり、炊き立ての飯粒を小皿に並べ黴だらけにしたりと、奇矯さは枚挙に
お凛とよく似た線の細く目の大きな面立ちで、無精髭が伸びかけた口元に、ほどよい愛嬌がある。
住まいは、お堀端の神田鎌倉河岸、竜閑橋と出世不動に近い猫屋新道の貸家であった。
朝早くから押しかけたお凛は、燿太郎を布団から無理矢理引き剥がし、座り込んで一気に捲し立てた。
燿太郎は
「どうしたいって。わかるだろう。もう来るな。しつこい。それだけだ」
「条件を出したのは、おまえなのだから、いま止めたら、また四郎さんに云われるよ」
卑怯者と。
「ううう」
「なんなら、嫁に行けばいいじゃないか。あそこなら医者を続けられそうだし、私と同じ四男だから舅姑もいなくて気楽だよ」
「代わりに、燿太郎が嫁に行くか」
「ははっ。……お凛、睨むんじゃないよ」
つまり、話はこうであった。
小石川養生所へ押しかけたお凛は、見合い相手の森島四郎から、「一緒に病と闘おう」と云われ詰まってしまった。「共に闘おう」と、お凛の手を取り訴えたのだ。
医者としてならば、諸手を挙げて賛成だ。市井の人々を助ける。医者とはそう在るべきだ。云うなれば、医者としての信念だ。
瞬時に思いが錯綜し、「帰る」というお凛を、森島四郎はにこにこと追いかけて来た。養生所の門前で引き留められ、ああしようこうしようと医者二人の未来を語る。
「待て」
お凛は制した。このままでは頷いてしまいそうだ。
「はい、なんでしょう」
「おまえの夢はわかった」
「あなたの夢でもあります」
ううう、と唸る。
間違いではない。お凛の町医者としての夢だ。
「わかった」
「わかって頂けましたか!」
「そうじゃない! どうしても、あたしを嫁にしたいというなら、まずあたしを納得させろ!」
「納得、ですか」
「そうだ」
云った本人すら、何を納得するのだと思う。
しかし、森島四郎は大きくうむうむと三度頷いた。
「わかりました。出直します」
ほっと胸を撫で下ろしたその翌日。かなり早朝──。
「お凛どの! お凛どの!」
深川は花六軒長屋。お凛の住居の戸口を、どんどんと叩きながら叫く男がいた。
「お凛どの! ご在宅か!」
「なんだ! こんな朝っぱらから!」
寝起きのまま腰高障子を開けると、森島四郎が立っていた。道具一式を背負い、朝日を浴びて顔は見えない。
「おはようございます。今日からお手伝いします」
「は?」
「養生所の笙船先生には訳をお話して、休みを頂きました」
「はあぁ?」
「ならば、頑張ってこいと、逆に励まされて」
気恥ずかしそうに頭を掻きながら、お凛の脇を通り、炬燵やら布団やらが散らかる板間へ上がる。
「さあ、支度をしましょう」
「何のだ!」
「勿論、診療のです。さあ、急いで着替えてください!」
それからだ。毎日毎朝、森島四郎のお凛
結果、ひとりでは捌ききれなかった患者の列が手際よく片付き、十日も経つうちには近所でお凛せんせのとこの四郎せんせを、知らぬ者はいなくなった。
「それは助かっている。皆に待ってもらわなくてよいのだからな。しかし」
「しかしって、以前、おまえも云ってたじゃないか」
と、燿太郎。
「四郎さんは、医者として尊敬できると。それじゃあ、駄目なのかなあ」
「なら燿兄。なんでお勝っちゃんと一緒にならない」
お勝とは、燿太郎の幼馴染で深川芸者の勝弥である。もとは武家の出の大層な美形で、勝気といえばお凛に勝るかもしれない。
「まあ、色々とあるのさ」
痛いところを突かれたのか、燿太郎はごにょごにょ云いながら、困ったお凛に策を授けてくれた。
そうして、通い始めて十三日目の早朝。
いつものように訪ねて来た森島四郎に、お凛は云った。
「これまで手伝い、ありがとう。だが、もう諦めてくれ。あたしには、す、……す……」
「す?」
四郎は懐から竹皮の握り飯を出し、どうぞと差し出す。手に取ると、ほんのり
お凛は三角の天辺にかぶりついてから、はたと我に返る。
「いいから、聞け!」
「勿論です。
「いいか! あたしには好きな男がいる!」
一息に云ったお凛に、森島四郎は、怪訝そうに眉を寄せた。年寄り臭い眉間の皺だ。
「聞こえたか。あたしには、好きな、男が、いるんだ。だから諦めろ」
口の端に米粒がついていた。取れ、と云いたいのを我慢して、お凛は森島四郎の百面相に思わず引く。
「それは……、つまり……
握り飯を持ったまま、地を這うような声だった。
「あいつは坊主だ!」
さらに、がくり肩を落とす。
「では、二木様のことなのですね。……実はそうじゃないかと、以前から」
「え?」
「お凛、いるかい」
からりと戸が開き、若い浪人者が覗き込んできた。美男子というのではないが、音吐朗々とした育ちのよさそうな若者だ。
「ああ、森島殿、おいででしたか。おはようございます」
「おはようございます」
「お凛、真慧がうちで卵雑炊を作っているから、二人でこちらへ来ないか」
朝陽を背負い、二木倫太郎が白い歯を見せて笑う。
「……行く」
お凛は目を細めた。何故か、見慣れたはずの倫太郎の笑顔が眩しい。
急に眩しい。とにかく眩しい。見ているのが苦しい。
目の所為だろうと森島四郎を振り返り、ふたたび倫太郎へと振り戻る。
「どうした、お凛」
「おまえ、……光ってるぞ」
倫太郎は朗らかに笑った。
「悪い夢でも見たのか」
くつくつと笑いながら、倫太郎の手が額にかかり、そのままこつんと額と額が合わさった。すぐ間近で、茶色い眸が笑っている。
「うん。熱はないな」
早く来いと云って、ぱたり、と戸が閉まる。
「お凛どの……?」
お凛は幼児のように目を瞬く。その手から、ほろりと握り飯が落ちた。
(続く)
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