81話 周章狼狽

 小石川御薬園にある養生所は、八代将軍吉宗によって設けられた施療院である。


 きっかけは、町医者小川笙船しょうせんが、目安箱へ投じた訴状であった。

 吉宗は南町奉行大岡忠相ただすけへ検討を命じ、結果、笙船を肝煎役に据え、小石川の御薬園に養生所が開かれたさた。享保七年(一七二二)のことであった。


 養生所の敷地は約千坪。常に百人余りの患者が施療を受けている。

 お凛は番小屋前を駆け抜け、杮葺こけらぶきの大きな建屋に上がった。南北に続く長い廊下から、病人長屋を一部屋一部屋のぞいて回る。


 目を釣り上げて探し回るお凛に、下働きの女が「おりん先生」と、桶を置いて教えてくれた。


「森島先生ならば、夕べ具合の悪い婆さんにずっとついていなさったようで」


 寝ろ、と笙船に命じられ、奥の宅で休んでいるらしい。


「わかった。ありがとう」


 お凛は、かっかと燃え盛る頭のまま外へ出、敷地の奥へと向かった。

 立木と小さな稲荷社、その近くにこじんまりとした建屋がある。肝煎職小川笙船親子の住居であった。


「森島! 出てこい!」


 叫ぶなり飛び込んだ。履物を脱ぎ散らかし、勝手知った奥へと突き進む。納戸に続く板戸を一気に開くと、は布団にくるまって丸くなっていた。


「起きろ!」


 引き剥がすと、昆布巻きよろしく中身が転がり出てきた。

 若い男である。目を瞬きながら、眉間あたりをごしごし擦る。しわだらけの着流し姿で、何が起きたのかと見回した。と、仁王立ちのお凛の足元に気づき、そのまま上を見上げ、「あっ」と声をあげる。慌てて座り直して裾を整えたが、首筋あたりまで真っ赤になっていた。


 これが森島四郎。奥医師かつ高名な蘭方医、桂川甫筑ほちくの四男坊で、お凛の見合いの相手らしい。代々奥医師を勤める医家なのだが、四男ならば好きに生きてもよろしかろうと、小川笙船の元で修行中だ。

 年はお凛よりも二つ上。背はわずかに高い。

 犬猿の仲──と思ってきた。

 「辰砂の毒」の一件では、笙船共々うなぎ長屋で手伝ってくれた。感謝とともに、そのぬるさを見直したと思ってきたのに。


「お凛どの! いきなりなんですか!」

「それはこっちの台詞だ!」


 きょとんと見上げた顔は、まるで犬だ。真面目かつ信に満ち満ちたどんぐり目。耳を立て、満面の笑顔となって「わん!」と吠えそうだ。


 お凛は息を吸うと、

「断る」

 ただ一言。


 一瞬、きょとんとしたが、

「ああ、なるほど」

 頷いて微笑を浮かべ──お凛は、森島四郎のこのうすら笑いが大嫌いだ──「まず、そこに座ってください」と言った。


「いやだ」

「立っていたら、話も出来ません」

などない」

「私と話すために来たのでしょう」

「断る。それだけだ」

 くるりと背を向ける。

「お凛どの。それは卑怯です」

「卑怯だと!」

 思わず振り返る。

「不意打ちを仕掛けたのは、そちらだろう! 月に何度も顔を合わせているのに、突然馬鹿なことを言い出すな!」

「馬鹿な、こと」


 森島四郎の太い眉が、ぴくりと上がった。上がっても犬のようだと、お凛は思う。

 むかし、家で犬を飼っていた。母のちん。あのどんぐり目を思い出す。


「どこが鹿なのですか。きちんと筋を通すべき話です。だから父に相談して」

「おまえと祝言する気などない!」


 森島四郎は、目を瞬いた。それからもう一度。


「なぜ、ですか」


 なぜ、と問われてお凛は詰まった。

 お凛は、今年二十二。とうに嫁いで、子の一人二人在ってもおかしくない年だ。

 しかし、お凛は医者を志した。奥で畏まって、「旦那様」とかたちだけ夫を立てて、子を産み育てて一生を終えるなど、死んでも嫌だ。それよりも医者でいたい。人の役に立ちたい。おのれだからこそできるのだと、そのこころがお凛を満たしている。


「こっちが訊きたい。あたしを嫁にしたきなど、命知らずもいいところだ!」

 何故か、森島四郎の目がぱっと耀く。

「なぜ、あたしだ。甫筑ほちく様のお身内ならば、嫁の来手などいくらでもいるだろう」

「ええ、まあ」


 森島四郎は、鬢のあたりを掻いた。代々の奥医師であれば、推挙次第で大名家の奥医師さえ望めるはずだ。


 ないものといえば、

「金か。佐々家うちは金持ちだ。それが目当てか」


  怒ると思った。しかし、四郎はうーんと言わんばかりに眉を寄せる。若いくせに眉間のあたりに大きな皺があるのは、この癖が原因だろう。


「確かに。佐々様は羨ましいほど富がありそうだ。それに惹かれないかと言えば、嘘になるな」

 お凛は鼻でせせら嗤った。

「やはりな」


 お凛は、土間で脱ぎ散らかした履物を探す。紺足袋の指先でひっかけ、土を払う。


「お凛どの。あなたは素晴らしい医者だ」


 森島四郎は、お凛の華奢な背に云う。


「あなたの患者への接し方だ。そこに惚れた」


 振り向いたお凛が、口をあんぐり開けた。手から草履が落ちていく。


「私は、医者としてのお凛どのが好きだ、とそう申し上げているのです」


 四郎は、土間へ飛び降りると、膝をついてお凛の手を取った。


「お凛どのの優しさ、毅然として病に立ち向かう姿勢、なにもかもが好ましい」


 犬が突如いたちにでもなったかのようににじり下がる。


「おまえに三つ指ついて仕える気などない!」

「そんなことは、あなたに求めない」


 四郎はいつものあの、もののわかったようなうすら笑いを浮かべた。


「ともに闘いましょう」

「はあ?」

「お凛どの、私とともに病と闘いましょう。私は、あなたとともに貧しい病人を救いたいのです。私は、ともに闘えるひとと一生を共にしたい!」


 握られた指先に、ぎゅっと力が入る。舌を出して笑う犬のように、森島四郎は目を輝かせ、お凛の次の言葉を待っている。

 どこから来るものなのか、その目は信頼に満ち満ちて。

 心頼こころだのみ(婚約)もと読めるなと、余計なことが頭に浮かぶ。

 握られ指が熱い。


(た、助けてくれ……!!)


 佐々 凛、絶体絶命の窮地であった。




(続く)











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