81話 周章狼狽
小石川御薬園にある養生所は、八代将軍吉宗によって設けられた施療院である。
きっかけは、町医者小川
吉宗は南町奉行大岡
養生所の敷地は約千坪。常に百人余りの患者が施療を受けている。
お凛は番小屋前を駆け抜け、
目を釣り上げて探し回るお凛に、下働きの女が「おりん先生」と、桶を置いて教えてくれた。
「森島先生ならば、夕べ具合の悪い婆さんにずっとついていなさったようで」
寝ろ、と笙船に命じられ、奥の宅で休んでいるらしい。
「わかった。ありがとう」
お凛は、かっかと燃え盛る頭のまま外へ出、敷地の奥へと向かった。
立木と小さな稲荷社、その近くにこじんまりとした建屋がある。肝煎職小川笙船親子の住居であった。
「森島! 出てこい!」
叫ぶなり飛び込んだ。履物を脱ぎ散らかし、勝手知った奥へと突き進む。納戸に続く板戸を一気に開くと、目当ては布団にくるまって丸くなっていた。
「起きろ!」
引き剥がすと、昆布巻きよろしく中身が転がり出てきた。
若い男である。目を瞬きながら、眉間あたりをごしごし擦る。しわだらけの着流し姿で、何が起きたのかと見回した。と、仁王立ちのお凛の足元に気づき、そのまま上を見上げ、「あっ」と声をあげる。慌てて座り直して裾を整えたが、首筋あたりまで真っ赤になっていた。
これが森島四郎。奥医師かつ高名な蘭方医、桂川
年はお凛よりも二つ上。背はわずかに高い。
犬猿の仲──と思ってきた。
「辰砂の毒」の一件では、笙船共々うなぎ長屋で手伝ってくれた。感謝とともに、その
「お凛どの! いきなりなんですか!」
「それはこっちの台詞だ!」
きょとんと見上げた顔は、まるで犬だ。真面目かつ信に満ち満ちたどんぐり目。耳を立て、満面の笑顔となって「わん!」と吠えそうだ。
お凛は息を吸うと、
「断る」
ただ一言。
一瞬、きょとんとしたが、
「ああ、なるほど」
頷いて微笑を浮かべ──お凛は、森島四郎のこのうすら笑いが大嫌いだ──「まず、そこに座ってください」と言った。
「いやだ」
「立っていたら、話も出来ません」
「はなしなどない」
「私と話すために来たのでしょう」
「断る。それだけだ」
くるりと背を向ける。
「お凛どの。それは卑怯です」
「卑怯だと!」
思わず振り返る。
「不意打ちを仕掛けたのは、そちらだろう! 月に何度も顔を合わせているのに、突然馬鹿なことを言い出すな!」
「馬鹿な、こと」
森島四郎の太い眉が、ぴくりと上がった。上がっても犬のようだと、お凛は思う。
むかし、家で犬を飼っていた。母の
「どこが馬鹿なことなのですか。きちんと筋を通すべき話です。だから父に相談して」
「おまえと祝言する気などない!」
森島四郎は、目を瞬いた。それからもう一度。
「なぜ、ですか」
なぜ、と問われてお凛は詰まった。
お凛は、今年二十二。とうに嫁いで、子の一人二人在ってもおかしくない年だ。
しかし、お凛は医者を志した。奥で畏まって、「旦那様」とかたちだけ夫を立てて、子を産み育てて一生を終えるなど、死んでも嫌だ。それよりも医者でいたい。人の役に立ちたい。おのれだからこそできるのだと、その
「こっちが訊きたい。あたしを嫁にしたきなど、命知らずもいいところだ!」
何故か、森島四郎の目がぱっと耀く。
「なぜ、あたしだ。
「ええ、まあ」
森島四郎は、鬢のあたりを掻いた。代々の奥医師であれば、推挙次第で大名家の奥医師さえ望めるはずだ。
ないものといえば、
「金か。
怒ると思った。しかし、四郎はうーんと言わんばかりに眉を寄せる。若いくせに眉間のあたりに大きな皺があるのは、この癖が原因だろう。
「確かに。佐々様は羨ましいほど富がありそうだ。それに惹かれないかと言えば、嘘になるな」
お凛は鼻でせせら嗤った。
「やはりな」
お凛は、土間で脱ぎ散らかした履物を探す。紺足袋の指先でひっかけ、土を払う。
「お凛どの。あなたは素晴らしい医者だ」
森島四郎は、お凛の華奢な背に云う。
「あなたの患者への接し方だ。そこに惚れた」
振り向いたお凛が、口をあんぐり開けた。手から草履が落ちていく。
「私は、医者としてのお凛どのが好きだ、とそう申し上げているのです」
四郎は、土間へ飛び降りると、膝をついてお凛の手を取った。
「お凛どのの優しさ、毅然として病に立ち向かう姿勢、なにもかもが好ましい」
犬が突如
「おまえに三つ指ついて仕える気などない!」
「そんなことは、あなたに求めない」
四郎はいつものあの、もののわかったようなうすら笑いを浮かべた。
「ともに闘いましょう」
「はあ?」
「お凛どの、私とともに病と闘いましょう。私は、あなたとともに貧しい病人を救いたいのです。私は、ともに闘えるひとと一生を共にしたい!」
握られた指先に、ぎゅっと力が入る。舌を出して笑う犬のように、森島四郎は目を輝かせ、お凛の次の言葉を待っている。
どこから来るものなのか、その目は信頼に満ち満ちて。
握られ指が熱い。
(た、助けてくれ……!!)
佐々 凛、絶体絶命の窮地であった。
(続く)
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