80話 呉越同舟
佐々凛の実家は、本郷元町にある。旗本屋敷が連なる静かで落ち着いた界隈で、近くの三念寺という真言宗の寺では、幼い頃よく兄たちと遊んだものだった。
佐々家はかつて、東北のさる小藩の御殿医であったが、三代様(家光)の治世に御家が改易となり、自然失職した。
一念発起した祖父は、江戸へ出て町医者となった。
もともと商売上手だったのか、父の代には駕籠に乗り、やがて大店はおろか、お旗本の御殿へもしばしば呼ばれるようになった。
いまでは三人の兄が診療にあたり、父はもっぱら社交に明け暮れている。結果、佐々の家はますます栄えたのだ。
そのような家で、お凛は鬼子であった。
良順、玄順、敬順という三人の兄とは似ても似つかぬ。
医術は誰のためなのか。病のまえでは金持ちも貧乏人も、百姓もお侍もない。
お凛は富裕を積む家業に耐えかねて、長崎への遊学から戻るなり、とうとう家を出た。
出たと云ってもおなごの身。医術はあっても世間知らずだ。実のところ、いまでも母の──実家の世話を受けて、花六軒長屋で医者を続けていた。
「まあ、お凛さま!」
勝手口から入ると、広い賄いで女中たちが動き回っていた。
そのなかでもっとも年長の、なかば白髪となった女が、前掛けで手を拭きながら駆け寄ってきた。
「おしげ、おっかさんは」
「おそろいですよ」
おしげはもっとも古参の女中だ。娘の時分から母に仕え、佐々家の裏と表を知り尽くしている。忠実さも犬のようで、母以外には懐かない。
「まあ、なんて
着替えろと云いたいらしい。
お凛は、おのれの姿を見回す。
地味な縞の小袖に、おのれで工夫した筒袖の道服。汚さぬ工夫は、気軽に洗えて清潔だ。
と、
「お凛!」
どたどたと足音がして、三男の敬順が現れた。どうやら近くの座敷で見張っていたらしい。
年は、今年ちょうど三十。いつも上目がちで、ひょいと首を出す癖があった。まるで亀だ。生真面目な次兄玄順と、とびぬけた英才である四男燿太郎の間にあって、その媚びるような目つき以外、なんの取り柄のない──と、お凛は思っている。わざわざ髪を蓄え束髪にしているのも、上方の名医、後藤
「早う来い。父上も母上も首を長くしてお待ちだ」
おのれの手柄のように連れて行こうというのか。そう思うのさえわずらわしい。
「手水へ寄ってから行く。敬兄はそう伝えて」
六つ下の妹に指図され、敬順は思わず頷いた。そんな兄でもあった。
「いつまで、こうしているつもりだ」
八畳ほどの居間に、六人が居並ぶ。お凛の父、佐々
五人の親族を相手に、お凛はだんまりを決めこんで、あさっての方を見ていた。
障子戸にちらちらと庭木が映る。冬の日差しは寒々しいな──などと思いめぐらしている最中だ。
父はといえば、二十歳も過ぎたのにどうだとか、女は嫁いで子を産み育ててなんだとか、額に汗しながら繰り返している。
「いいか。これはおまえにとっては、又とないほどの良縁なのだぞ。しかも、おまえの意向も訊いてほしいとのことだ。本来であれば」
こほんと咳をして、
「旦那さま、よろしゅうございますか」
およねがさえぎった。柔らかなものいいだが、有無を云わせぬ
「ああ、もちろんだよ、およね」
母は猫だ。まっ黒な猫。父も兄たちも、この母の前では白鼠になる。
「お凛」
母は、おっとり娘を見すえた。
「いいかい。おまえの意向など関係ない。これは決まった話だからね」
「おっかさん!」
「先方様のご希望だ。見合いの場は設けるが、かたちだけだよ。婚礼は五月。仲人は奥医師の村山様だ。そのつもりで始末をおし」
どん、と床を踏んで、お凛が片膝立ちになる。寒さ避けの股引は水浅葱だ。
「始末って、なによ!」
およねは、娘の格好に眉を顰める。
「深川の長屋は引き払って、家へお戻りなさい。おまえの心根は立派だが、そろそろ潮時だ。燿太郎がぜひにと云うから長崎へもやったが、自儘もたいがいにおし」
「そうだとも、お凛」
続くのは、長兄の良順。
「あのような汚い長屋にいることはないだろう。婿殿も医者だ。どうしても医術を施したければ、子ができるまで養生所を手伝えばよい」
「なんだって!?」
思わず、長兄の衿元をつかみ上げた。
「いま、なんて言った!」
「お凛、や、やめなさいっ!」
「誰だ! あたしを嫁にしたいという、そのものずきは!」
ぐいぐいと引っぱって揺さぶる。
「おまえ、まだ聞いていないのかい」
次男の玄順がおっとりと云うのへ、
「知るか!」
敬順が止めに入るがお凛に蹴り飛ばされ、父はおろおろと腰を浮かすばかりだ。母は湯呑みで白湯をすする。
「誰だ、名をいえ!」
「み、見合いの相手は森島四郎殿だ。蘭方医の桂川甫筑様の四男で、養生所の小川先生の元で本道を修めている俊英だ。おまえも相手に不足はないだろう!」
「は、あああぁっ?!」
お凛は、驚きのあまり兄を突き飛ばした。
「あいつなのか?!」
「あいつ? お、お凛、待て!」
「お凛!」
「お戻りなさい!」
どかどかと床を踏みしめて、お凛は実家を飛び出した。
(続く)
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