第五章 お凛の戀
79話 災難到来
お
「それはおまえも同類だろう」
幼馴染で隣人で、破戒坊主の
お凛には、これが恋だかどうかもわからない。
でも、そいつの為なら死んでもいい──ふとたまに、そいつを見ているとそんなふうに思えるのだ。
「あたしは医者だ」
そのたびに声に出す。生きるも死ぬもかたわらにある。だから、こんなこと滅多にない。口が裂けても云ってはいけない。
でも、そいつの為なら──そう酔ったように思うおのれが、だからどこか嫌いで、それでいて──心地よい。
お凛は、そんなおのれが許せない。
とまれ、時は半月ほど遡り、端緒は凶報をたずさえた兄の来訪であった。
その日。
「でてけっ!」
からりと晴れ渡った師走の朝だ。冬空に雲ひとつなく、江戸は深川門前町一丁目、さびれた稲荷社とくねくね道の果て、通称花六軒長屋で桶が飛んだ。
「帰れ!」
ほうほうの態で戸口から転がり出てきたのは、年の頃は三十半ばといった禿頭の男であった。長着に十徳羽織というおさだまりの身なりながら、一目で高価とわかる紬の袷、練絹の衿巻。年の割にぽてりとした腹と腰回り。
風呂敷包に煙草道具、手土産らしき菓子折が次々と投げ出され、だめ押しに塩が吹雪いた。
「止めんか、お凛!」
手をかざして避けながら、住居のなかへと怒鳴り返す。
「さっさと帰れ!」
「そのいいぐさはなんだ! それが兄に対する態度か!!」
盥が飛んで、向かいの戸に当たる。いま少しで、障子を突き破るところだ。
次いで現れたのは、文字通り仁王立ちとなった女医者のお凛だ。小柄というより痩身で、大きな目を仁王のごとくひん剥いて、きりりと上がった眉は、潔いほど一文字。
「へえ」と、あきらかに侮蔑する口調で睨めつける。「大兄さんが大兄さんらしくしてくれたのって、ずううううううっっっっっっっっと昔すぎて、とんと、とんと、とんと覚えがないんだけど!」
「なんだ、その口の利き方は! だから、二十二にもなって、嫁の……、う、うわっちっ!」
座布団だ。顔面にまともに受けてひっくり返る。横に投げすて、
「いいから、ともかく明日、家へ来い。母上を泣かすなよ!」
最後に飛んだ乳鉢を避け、四人の兄のうち最長兄の良順は、散らばる道具を拾い集め、そっと覗く好奇の目に気づかぬふりで着物の泥を払った。霜柱がとけて、溝板あたりが泥濘んでいたのだ。
「せっかくの」
舌を鳴らす。着替えねばいかんとぶつぶつつぶやきながら、禿頭の医者もどきは帰って行った。
するといっせいに戸口が開き、すっぽんの子よろしく店子たちの首が並ぶ。互いに目を見合わせてうなずくそこへ、
「ひっこんでな!」
無論、お凛の怒声である。
さわらぬ神に祟りなし──障子戸は、示し合わせたようにそろりそろりと閉まっていった。
江戸は深川門前町の一角に、花六軒長屋と呼ばれる棟長屋があった。大家は三町先の浄土宗大源寺。差配は八卦見の小川
棟長屋のわりに立派な普請で、店子はすべてわけありかついわくつき。木戸番は才助と云う一見気が弱く人が良さそうな親爺だが、小悪党が迷い込んだ時には、あっという間に後手に締め上げたとか、ふん縛ったとか。
花六軒のいわれは長屋の裏手、まあまあの畠地にある桜の樹で、花見にうってつけの枝ぶりは、葉も枯れ落ち芽もかたく、根元近くまで小松菜が青々と続いていた。
「で、どうすんだ、おまえ」
その日の夕刻、のんびりと声をかけたのは、幼馴染で隣人で、破戒坊主の賄い大将、真慧であった。
お凛より頭ひとつ上から見下ろし、よそった木椀を差し出しながら目で促す。
その二人がいるのは、同じ長屋に住う浪人で、やはり幼馴染の
「実家からの呼び出しだろう?」
椀をうけ取り、お凛は憎々しげに云った。
「あたしに、エンダンだって」
三人は、顔を見合わせた。
エンダン、と幾度か反芻する。
「おまえに縁談?!」
すっ頓狂な声をあげたのは、やはり真慧であった。
「世間には物好きもいるもんだ。
あけすけに云われて、さすがにむかっ腹がたつ。音を立てて椀をおく。
「あたしに縁談がきたら、そんなにおかしいのか」
「いや、そうじゃなくて、俺は、ただ」
「おめでとうごさいます!」
助け舟にと、明るい声で墓穴を掘ったのは、やはり里哉であった。
鼈甲縁の眼鏡にくるくるよく動く目が幼童のよう。前髪を落として剃り上げた
お凛はじろりと睨むと椀の汁を飲みほし、箸をおいた。
「
めずらしく、さっさとおのれの住居へ戻ってしまった。
「あ、あの。私、なにかまずいことを云いましたか。縁談っておめでたいことですよね」
「まあ、そうだな」
真慧は、鍋に残った草鞋の煮崩れたようなものを、里哉の椀へよそった。
「お凛に縁談ねえ」
顎を撫でながら云うのは、この住居のあるじ二木倫太郎である。おっとりとした育ちのよさそうな若者で、年の頃はお凛と真慧のまん中あたり。矢鱈縞の
「気になるのか」
「そりゃ、お凛のこと、だからね」
意味するところを正しく汲みとり、真慧はにやりと口の端をゆがめた。
「あまり構うなよ、倫太郎」
「まさか」
邪気のない笑顔は恐ろしい。
「お凛に釣り合う相手かどうか」
それだけは見きわめないと──倫太郎は云って、ご馳走様と手を合わせた。
(続く)
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