幕間(五)
「それで、おまえの兄を取り込むことはかなわなかったか」
「はい、殿様」
篠井
武家屋敷のようである。簡素な意匠の中で、欄間の見事な細工が際立つ。鳳凰だ。羽を広げ鶏冠を上げ、今にも飛び立ちそうな勢いだった。立て切った障子戸の向こうからは、時折、
「なれど、楔は打ち込みました」
「楔、とな」
「どのような硬い石も粘る木も、ある一点目がけて楔を打てば容易に割れるもの、折れるもの。それは、ようご存知のはず」
「口が過ぎるぞ」
「申し訳ござりませぬ」
音哉は畏まって見せる。
「なれど、いま少し時がかかります。篠井の手の者も、煩くなって参りました。しばし、ご容赦下さいますよう」
「構わぬ。しばらく休め。面倒は起こすな。今はな」
「御意」
「下がれ」
滑るように、音哉の姿は次の間へ消えていった。
「さて、如何しようかの」
脇息へもたれ独り言ちると、男は癇性そうな眉を寄せた。
「で、俺に弟子入りしたいっていうのか!?」
「はい。ぜひ、よろしくお願いします」
花六軒長屋である。
炊きすぎたと、朝から葱入りの卵雑炊を持って訪ねた真慧を、頼みがあると引き止めた。
「学問以外で私にできるとこは何か、考えたのです。倫太郎様や、みなさんのお役にたてることは何だろうと」
「──ああ」
嫌な予感がする。
「料理です」
無論、里哉は真顔である。
真慧は腕組みし、土間に立ったまま里哉を見下ろした。不遜この上ない。
「本屋で、料理だったらこれだと勧められました。それで」と、一冊の本を出し「読んでみたところ、料理はまるで学問のようだと思うに至りました」
『料理物語』とある。
「種別に分けられ、五百あまりの料理が載っています。もし、これ一冊すべてを身につけたのなら、倫太郎へ毎日美味い御膳を」
「待った」
「はい」
真慧は、こめかみ辺りを指先で揉む。
里哉は真剣だ。
「確かに、『料理物語』は面白い。俺も持っている。だが、お前が料理する必要、あるか?」
江戸は男
倫太郎らも大体は飯を炊き、味噌汁を作る程度で、朝は納豆汁に漬物、夜は真慧の手料理に呼ばれるか、それこそ馴染みの棒手振りから惣菜を買う。
見る間に意気消沈していく里哉の後ろで、倫太郎が目くばせする。
それに眉をしかめて首を振るが、そっと手を合わされ、真慧は折れた。
「ならば、五ツ半にうちに来い。今晩はたまごふわふわだ」
「はい!」
たまごふわふわとやらを、一緒に作ろうということらしい。
真慧は倫太郎をひと睨みすると、「ふん」と鼻を鳴らして帰って行った。
「よかったな、お里」
「はい。やはり真慧さんは良い方です。むかし紀州であんなことがあったのに……」
「ああ」
と、倫太郎は口許を緩めた。
「それには触れない方がいいぞ。お里のためだ」
くつくつと笑いながら、縁側から裏へ下りる。その懐には『料理物語』だ。秋茄子がたわわに実る畠地を周り、畦道の先、長屋の謂れとなった見事な桜樹の下で陽射しを避け、本を広げる。
里哉が蚊遣りを手に、後を追って来る。
倫太郎はごろりと横になる。瞼にちらちらと木漏れ日を受けながら、大きく伸びをした。
「で、結局、里哉様は賞金をどうされたんだい」
日本橋
てきぱきと帳面付を進めるお登勢と違い、おふくはさっきから行ったり来たりだ。終いには算盤を投げ出して、母親に睨まれる。
「本屋からいくつか荷物が届いたって小川先生が言ってたけど」
小川先生とは小川陽堂、八卦見の大男で花六軒長屋の差配(世話役)だ。
「で、あんたはお駄賃を貰えたのかい」
進まぬ娘の手元から、帳面を取り上げる。
「ふふふふふ」
「気持ち悪い笑い方するんじゃないよ」
「やっだー、おっかさん」
おふくは勿体をつけて、袖から小さな紙の包みを出す。
──おふくどの
里哉らしい、四角四面の
「あら、よかったわね」
「実はね、なんと五両も頂いたの! 命の恩人だって。あたし、里哉さん見直したわ!」
「お寄越し」
母親が手を差し出している。
「そんな大金、あんたがぼーっと持っていたら落としちまうよ。あたしが預かっておこう。第一、そんなに頂いたらバチがあたる」
「え」
返すと言うのへ嫌だと言って、
秋風が吹き始めた、長閑な午後である──。
同日、午後。深川八幡
その白書院に、篠井児次郎はいた。上段には壮年の武家。頬骨が高く、炯炯とした眼差しと緩みのない体躯。目立たぬ質素な身形ながら、脇息にもたれ寛ぐ様は、飛び立とうとする大鷹のような風情である。
「児次郎、互いに我が子には苦労するの」
男は、喉で笑っている。
「笑いごとではございません、新之助様。今後、どのような仇を成すつもりなのか。時と場合によっては、この首を差し上げるだけでは済まぬやもしれませぬ」
と、深くため息をつく。
「まあ、よい」
新之助と呼ばれた武家は、座を下りた。児次郎の前に、どかりと胡座をかく。
「若さは惑いとなる。そうであろう」
互いの目を見交わし、微笑んだ。
「近頃とみに思う。心安き者は得難い。幸い、儂には幼い頃より角兵衛や、長じてはさらにお前もいた」
「心安きは不和の元、とも申しますぞ」
ちくりと言う。
新之助は、豪快に笑った。
「だからこれは命ではない。同じ親としての頼みだ」
児次郎はわずかに迷い、やがて大きく頷いた。
「承知仕りました。里哉は若君のお側に」
「すまぬ」
児次郎は無言で平伏した。
(続く)
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