78話 雲の旗手

 激しく大戸を叩く音がする。同時に、住居の奥の方から足音が近づいてきた。


「里哉殿!」


 抜身を下げた原 賢吾だ。土足のまま、警戒しながら目を配り、潜戸の閂を外した。

 床の龕灯がんどうに照らされ、二木倫太郎が敷居を跨いだ。


 篠井里哉は、板間の上り口に腰掛けたまま、目が覚めたようにゆっくりと顔を上げた。


「お里、無事か」

「倫太郎様、どうして」

「おまえが置いていったこれだよ」


 懐から〈謎謎百万遍〉の講元一覧の絵図と、書き散らした書付を出す。


「音哉はどうした」

「もう、いません」

「奥を見てきます」

 原が店の奥を探りに行く。


 倫太郎は、里哉の傍らに膝をついた。

「何があったんだ。連れ去られたと聞いた。ここで音哉といたのだろう」

「はい」

 何かが奇妙だった。

「どうした、お里」


 倫太郎は小柄な従弟を覗き込む。里哉の目は、どこか遠くを見ているようだった。


「一緒に来てくれと言われました」

「お里」

「しばらく、江戸には戻らないので、共に来て欲しいと」


── お里は、なにを望んでいるんだい。


 潜戸の向こうは真っ暗だ。時の鐘が鳴り始めた。

(私の望みは)

 戻ってきた原賢吾は首を振り、無人をであることを伝えた。





「──で、何事もなくみんな無事だったってわけね」

 おふくは、羽二重団子を口いっぱいに頬張った。

 翌日、深川門前町一丁目の花六軒長屋である。倫太郎と里哉の住居で、勝手に炒茶を入れていた。


「それにしても、一体なんだったのかしら。音哉さんて、里哉さんの弟とは到底思えない」

「ま、あいつは相当な性悪だからな」

「性悪、性悪って、真慧しんねさん、何があったの?」


 次は醤油の焼き団子か、餡子あんこの飴団子か。おふくの指先が迷う。


「むかーしむかし、山ん中でいやーな事があってな」

「真慧さんが言うんだから、相当よね」

「そりゃ、どういう意味だよ、おふくちゃん」

「そういう意味」

 と、最後の焼き団子を奪い取る。

「で、結局、最後の謎かけって何だったの? 期日には間に合わなかったから何にもなしよね。あたし、大損」


 何に損したと言うのか──真慧は口中独り言ちながら、倫太郎から聞いた話を繰り返した。


「ほら、いつも『八二』って書いてあったろ。あれは割算九九の八算の」

「あー」


 途端に、嫌そうな顔になる。


「の、八の段。『はち下加四かかし(20/8=2余り4)』。かかし案山子といえば、田圃だろ。田圃といえば米だ。前に貰った〈謎謎百万遍〉の講元一覧に、大和やまと屋という舂米つきごめ屋があったらしい。それと花札の十月がどうの、とか言ってたな。鹿に紅葉のだ」

「なんか、ひちめんどくさいわね」

「だな」

 二人は隠居よろしく、並んでずずずと炒茶をすする。


 今日は、夏が戻ったように陽射しが強い。風には秋の気配はあるが、こうしていてもじっとりと汗ばむようだ。

 真慧は縁側にごろりと横になった。長閑すぎて欠伸がでる。


「ね、倫太郎様はどこ?」

「さあ」

「里哉さんは?」

「知らねえよ」


「──ごめんくださいまし」

 いつの間にか、戸口で声をかける姿があった。

「あの、こちらは篠井里哉様のお住いでしょうか」

 まだ若いが大きな商家の手代のようで、腰低く、さわやかな笑顔で渡すものがあると言った。

 留守だと告げると、構わず袱紗包みを置いて行った。


「どういうことだ」

 受け取った真慧の手のひらは、ずしりと重い。まさかと開いていくと、懐紙に包んだ小判が十枚。「祝」の一文字を添えて燦然とひかり輝いていた。





 里哉は洲崎の浜にいた。弁財天吉祥寺の賑やかな門前を避け、松林の間に立って遠く江戸湾を眺めている。

 穏やかな内海も、潮の香は同じだった。海風に懐かしさが込み上げる。


 今朝、音哉が語ったことを、かいつまんで倫太郎へ伝えた。

 三年前、養家であった大叔父の屋敷で何があったのか。出奔後、に拾われ〈狐〉となった経緯いきさつ。そして、一緒に来いと誘われたことも。


 語り終わると、里哉は倫太郎へ問うた。

「私は、音哉と行くべきだったのでしょうか」

「どうしてだい」

 倫太郎は、穏やかに問い返した。


「音哉は、必要としています。私でなければならないのです。だから」

「それで、お里は賊の仲間になると言うのかい」


 そうではなかった。

 音哉は、おのれを必要としていた。語ったすべてが真実ではないかもしれないが、それでも、兄であるおのれを求めていた。

 盗賊の仲間になる気などない。務めを投げ出すつもりもない。

 しかし、血を分けた二子の弟が、「助けて欲しい」と手を伸ばしてきたのだ。里哉には、到底無碍むげにはできなかった。それをどうしたら、わかってもらえるだろうか。


「私は剣術も、体術も下手です。おふくさんに守ってもらったぐらいです。機転もききません。取り柄は勉学だけで目も悪いし、気も弱くて騙されやすい。だから、父上の申されるように、原様の方が若様のお側にいて役に立てる。それぐらい、私にもわかります」


「お里、それは違うよ」

 いいえ、と里哉は首を振った。


「私がもし無用の身であるのなら、音の側にいてもよいのではないかと、そう思えるのです。だから、倫太郎様。本当のことを言ってください。私はあなたのお役にたっていますか。此処にいてよいのでしょうか」


 倫太郎は、わざわざとため息をついた。膝を崩し、裏の田畠を見遣る。


「覚えているかい、お里。私が一年近く口をきけなかった時のことを」


 もう、だいぶ昔だ。

 ある日突然、篠井の里に従兄が現れた。声を失い、言葉を発することもできず、暗い目をして、笑うこともなかった。部屋に座ったまま生きているのか、死んでいるのか。里哉は、こわくなってよく覗きに行った。


「あの時、誰よりも私を救ってくれたのは、おまえなんだよ、里哉」


 倫太郎は、里哉を見ない。


「おまえの小さな温かい手が、私を慰めてくれた。何も言わずに横に座って、いつもにこにこと笑っていてくれた」


 従兄は、格好の遊び相手だった。話せない倫太郎と、流れる雲を数えた。鳥と歌った。音哉とともに走って転んで、おのれはいつも泣いていた。


「それが万の言葉よりも、私を慰めてくれた。『遊びに行きましょう』と、おまえと……音哉は共にいてくれた。だからといって『いるだけでいい』などと言ったら、おまえにはそれこそ不本意なのだろうね」


 でも、と続ける。


「私は、お里に此処にいて欲しい」


 こころの裡で、一片のかけらが溶けていく。それでもなお、それだからこそなおさら、さらに奥底で冷たい塊となって沈んでいく。


 おのれは、なにを期待されているのだろう。

 おのれは、何を望んでいるのだろう。


「出かけてきます」


 里哉は手をつくと、そのまま長屋を離れて海へと足を向けたのだ。


(私は、何をやってもいるんだ)


 水平線に、名残りの夏雲が湧く。水鳥が鳴きながら水面を飛び交っていった。右手は緩く海岸線が反って続き、松林の緑に富士の山が陽炎のように浮かんでいた。色豊かな風景が、なぜか荒寥として見えてくる。


「帰りたくない」

 ぽろりと溢れた。

「私は、帰りたくない」

 改めて声にすると、思った以上に強く望んでいるとわかる。

「私は、此処にいたい。諦めたくない」

 ならば、どうすればいい。


──答えがあるとしたら、すでに定まった過去のことではないですか。


 ふと、長屋の八卦見、小川陽堂の言葉が響いてきた。


──里哉殿が知りたいのは、過去のその方のこころですか。


(違う、と私は言った)

 おのれは戻りたいのではない。進みたいのだ。

(ならば──)

 ならば、こうは考えられないだろうか。

(いま力がなくば、力をつければよい、と)

 知恵が足らずば、学べばよい。いま持たぬことは、のぞみでもある。そうは思えぬだろうか。


 里哉は、おのれの手を開いた。

 なにも掴んでおらぬなら、これから掴めばよいのだ。

 もし、何を掴めばよいかわからぬのなら──。


 里哉は屈んだ。足元の砂を掴む。乾いて、指の間を溢れていった。


(ならばまず、足元の土を一握いちあくすくおう)

 そうして、その一握に種を撒くのだ。水をやり、育て、大樹とする。誰に言うこともない。おのれの胸の裡で育て続ける。


──ねえ、お里。お里はなにを望んでいるんだい。


 ともに行けないと言ったその時、あの音哉の顔。

 胸が痛んだ。おのれの片側が火傷をしながらも、なお熱風にさらされているようだった。

 二子の弟は憐れむように首を傾げ、こう言った。


──ならば、今じゃなくてもいいよ。来たくなったらいつでもおいで。妻戀稲荷に絵馬をかけて。私は、なにがあってもお里を助けに行く。


 そうしてともに生きよう。いつまでも待っていると。


──お里は絶対来るよ。


「それでも」


 手のひらに残る砂を、里哉は握る。

 それでも、歩みを止めない。下を向かない。おのれの道を歩んでいく。


 見上げると、ほんの少し高くなった空に湧き立つ雲は力強い。片頬に日射しを受け、里哉は言う。


「音、私がおまえを待っている」






(続く・第四章了)


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