76話 父と子
片鱗は、幼い頃からあった。
瓜二つの愛らしい姿は変わらぬものの、兄は怪我をした家猫を抱き上げ、泣くばかりであった。
しかし、弟は──。
「苦しいなら、殺してあげた方がこの子も喜ぶよ」
同じ顔、同じ声、同じ眸で言う。
「どうしてそんなこと」
「だって、お里。治らないのに放っておく方が苦しいし、かわいそうだ」
だから、いっそのこと命をとるべきだと。
里哉は反論できなかった。弟の言うことは間違っていない。いたずらに命を伸ばしても、きぬは苦しむだけだ。
「でも」
でも、何なのだろう。
里哉は、抗弁できず泣くばかりだった。眉のあたりにふたつの点があって、まるでお蚕さまのような顔立ちにきぬと名付けた。仔猫の時から、ずっと可愛がってきたのに、いたちにでもやられたのか、酷い傷を負って息も絶え絶えだ。
見かねた従兄が、きぬを連れて介抱してくれた。
きぬはそれから懸命に生き抜き、里哉の膝の上で最後の息をした。
「父上」
篠井里哉は頭を上げ、相対した父児次郎の目を真っ直ぐに見つめた。
柔和な面立ちは、凪いだ水面のようだ。それでいて鋼のような厳しさに、いつも父との距離を思う。おのれの成るべき姿がここにあった。
里哉は倫太郎を通して、福籠屋のお登勢へ言付けた。「弟のことで会いたい」と。
思いのほか早く返答があり、忍び宿のひとつである、深川佐賀町にある舟宿を訪れた。
里哉の父、篠井児次郎が率いる一党は、影の存在である。
元は紀州徳川家の隠密、
親子が相対しているのは、奥まった四畳半ほどの座敷だ。ほかに人影はない。午後の陽射しが、柳の影をちらりちらりと障子戸に映していた。
「おまえの弟のこと、だそうだな」
父は、音哉と名を呼ばない。
三年前、赤瀬の大叔父のもとを出奔したのち、勘当されたと聞いている。赤瀬で一体何があったのか、これまで父は首を振るばかりだった。
「何を知りたい」
「教えて頂けるのですか」
無用な問いだと気づく。そのつもりがなければ、求めに応じる父ではなかった。
何から訊ねるべきか迷った。ならば、直截にいこう。
「三年前、赤瀬で何があったのですか」
児次郎は腕を組んだまま、目を瞑った。
「真相はわからん」
まずは、言いおく。
「お前も知っての通り、払暁、屋敷から火が出た」
母屋は全焼し、焼け跡から弥九郎大叔父らしき、焼け爛れた屍が見つかったのだ。
「それだけではない。当時、難を逃れた下女が言うには、前夜、弥九郎叔父とおまえの弟が口論となったらしい。理由はわからん。そして、骸には幾度も刺された跡があった。丁度」
と、里哉の眸を凝視する。
「子供がこうやって」
児次郎は、腰の辺りに拳を重ねた。
「短刀を突き上げたような傷だ」
「まさか」
里哉は、息を飲んだ。
「父上は音哉がやったと、そう仰りたいのですか」
「だから、わからんと言った。出火と前後して、おまえの弟は姿を消した。そして、この春までいっさい音沙汰はなかった。どこへ逐電したのか、私にさえまるで掴めなかったのだぞ」
敢えて探していないと思ってきた。縁戚とはいえ、他家の養嗣子の身で出奔したのだ。不義理ゆえの怒りだと、そう思ってきた。
なにゆえか出した音哉は、篠井と
それがどれほどの大事か。
(ひとりでできることか)
しかも、状況が状況である。
「音哉がそのような非道を行う理由がありません。あの時、真実を言ってくださっていたら」
「言ったら、どうしたというのだ」
「音哉を探しました」
「それゆえだ」
父は、広げていた扇子の閉じた。それが合図なのか、隣室の気配が動く。誰かが控えているらしい。里哉は食い下がった。
「音は、たったひとりの弟です。放ってはおけません」
そして、第七の謎かけとして渡された赤い花札を、父との間に置いた。
「これは音哉が寄越した札です」
鹿に紅葉。
「昔、護摩壇山が真っ白になる頃、倫太郎様と姉上と四人で、よく骨牌遊びをしました」
十二ヶ月の花鳥風月。鹿に紅葉は十月。二人の産まれ月だ。里哉は菊に盃。九月の札だ。従兄は梅に鶯。姉は牡丹に蝶。
誰が言い出したのか。それを引くと皆から札が貰える──そんなたわいもない決めごとをした。身を潜めて暮らしてはいたが、笑い声の絶えない日々だった。
「これを寄越したのは、音哉もあの頃を忘れていないということです。私に伝えたいことがあるのだと思います。だから、会って確かめたい」
「確かめてどうする」
父の硬い表情は変わらない。
「三年前、何があったのかを明らかにして、父上と話すよう説得します」
「先般、おまえは、弟の手の者に連れ去られたのではないか」
かっと、頬が熱くなる。おのれの不覚を、父は責めていた。
「あれは……私の落度です。今度は油断しません。音哉は弟なのです。身を案じてはならないのですか!」
「お前の第一の務めは何だ」
「それは」
里哉は言葉に詰まる。
おのれの務めは明白だ。従兄であり、主筋でもある倫太郎を守ること。
「もし、おのれのすべきことがわからぬと言うなら、すぐに紀州へ戻れ。足手まといとなる」
里哉は、ぐっと床についた拳を握り込んだ。
「言うまでもなく、我等は影ぞ。お前はそれを継ぐ者だ。もし、おまえがおのが役目を果たせぬと言うのなら、いま此処でそう言え」
「父上!」
返答を待つ間もなく、児次郎は席を立った。
「よいか。これ以上、
「父上、私は篠井の嫡男として、この身にかえても倫太郎様の御身は護ります!」
「今のおまえに、その力量があるとは思えん」
何も言い返せなかった。
帰途、油堀沿いを下り、黒江橋に差し掛かった時だった。
名を呼ばれ、里哉は橋の中央で足を止めた。
いつの間にか、俯きながら歩んでいた。見慣れた足の形が目に入り、ゆっくりと目線を上げると、やはりそこに音哉が立っていた。
ひとつに括った髪。簡素な無地の小袖と袴。おのれと瓜二つの面差し。
「来ないからこっちから来たよ」満面の笑顔で、無邪気に笑う。「もう謎かけは解けたんだろう。昨日から待っていたのに」
里哉が握る赤い札を、音哉は嬉しそうに摘み取った。
「お里も覚えていてくれたんだね。倫太郎様も、一目でわかったよ」
と、里哉の背後へ目をやり、声を立てて笑った。
「ああ、父上の配下がついてきているね」
驚いた里哉の耳元で囁く。
「知らなかったんだ。相変わらず、お里は変わらないね」
変わらない。何が変わらないのか。
「そうだ。あの頃、どうしてこの札をを選んだか知ってる?」
「私たちの生まれ月だから」
音哉の満面の笑顔は、父によく似ていた。満月のような福々しさは、欠けてゆくおそろしさでもある。
「うん。それもある。あとね、『十三
音哉は両腕を広げると、一歩進んで里哉を抱きしめた。
「さ、行くよ」
「え」
腕を取られ、一緒に短い橋を走り切る。丁度、掘割を小舟が差し掛かった。魯を操るのは、あの藤助だ。
「行くよ。それとも、やめるかい」
音哉の口調は、揶揄うようだ。
──やる? やらない? お里はいつもやらないね。
「行くよ」
「そう」
腕を取られる。抱えようとするのをはねのけた。音哉が咲う。
「跳んで!」
二人は手を繋ぎ、跳躍した。
(続く)
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