73話 第六の謎謎
二木倫太郎は、舟で送るという紀伊國屋文左衛門の誘いを断り、梅若塚を見に
桜が目印だという。しばらく本堂の方へ歩いて行くと、見事な枝垂れ桜が見えて来た。板柵に囲まれた塚山から聳え、晩春の風情は思うだに楽しい。
「倫太郎さま!?」
案の定、塚の側に福籠屋の一人娘のおふくがいた。魚のように溌剌とした十五の娘だ。
おふくの母お登勢は篠井の配下で、里哉の父、児次郎の耳目であった。さらに篠井児次郎は倫太郎の母方の叔父であり、かつては紀州徳川家に使え、
原賢吾は、同じ深川門前町一丁目の花六軒長屋に住まう浪人者だ。年は二十代半ば。どういう
そのおふくと原賢吾に付き添われているように立つ、小柄な武家拵の少年が篠井里哉だ。倫太郎の侍者であり、母方の従弟にあたる。
なんとも奇妙で目立つ取り合わせだと含み笑いつつ、倫太郎は里哉の思い詰めたような目の色に気がついた。
「お里、どうした」
「倫太郎様こそ、ここでどうなさったのですか」
見張った目が、揺れている。
「ああ、実はね」
まずは、と近くの掛茶屋へ三人を導いた。
前垂れ姿の娘へ焙り餅と炒茶を頼むと、倫太郎は紀伊國屋文左衛門を介して備前屋徳右衛門と会った件を、里哉は第六の謎かけに行き当たった
「それで、何が問題なんだい、お里」
里哉のかたい顔つきは変わらない。
「その六番目の謎かけに、何か問題があるのだろう?」
「はい」
里哉は懐から出し、倫太郎へ手渡す。
いつもと同じ折り込んだ紙だ。隅に朱書きで「八二」。
「開くよ」
紙片は、ほぼ文字で埋め尽くされていた。追っていた倫太郎の目が、里哉へ戻る。
「これは、和算の遺題だね」
「はい」
第六の謎かけは、そのまま隣の原賢吾へ、そしておふくへと回る。
「これは……、第六の謎かけは、みなさんもご存知の『
和算とは、元や明代の算術書をもとに発展した、本邦の算学である。
なかでも寛永年間に記された吉田光由の『
その『
以降、和算の書物にはこの遺題がつきものとなり、さらに遺題継承として、より難解な問題を出し合っては、その解を木額として神社へ奉納する習いとなった。
「和算は、お里の得意だろう」
「はい。そうなんですが」
幼い里哉へ手解きをしたのは、倫太郎であった。その後、『塵劫記』をはじめ、何冊かの書物を夢中で解くと、自ら問題を作るようになった。二子といえども才は異なるようで、こと和算に関しては里哉が教える立場だった。
「もとの遺題は松と杉、檜木と栗の木の値段を問う問題です。ですが、これは」
と指す。
「柿と枇杷、桃と蜜柑となっています」
確かに『塵劫記』のように材木ではなく、果実の値だ。
「『塵劫記』は、私が和算に興味を持った最初の書物です。なぜかこれだけは私の方が得意で、その面白さをわかってもらいたくて、一緒に遊びたくて音哉へも教えました。柿、枇杷、桃、蜜柑。当時はそのくらいの工夫しか思いつかなくて。でも、だめでしたけど」
いつになく、薄く笑う。
「お里は、この謎かけを作ったのが音哉だと、そう言いたいのだね」
「はい。ただの偶然とは思えないのです。突拍子もないとは思います。しかし、これは音哉が私に寄越したものです」
と言って、里哉は改めて気付いたように目を見張った。
「もしそうだとしたら、この〈謎謎百万遍〉は……」
「ああ、事情が違ってくるね」
「でも里哉さん」
謎かけを里哉へ戻して、おふくが言った。
「それって、妙よ。ありえない。ただの偶然ってこととあるでしょう? だって、音哉さんは盗賊だっていうし、〈謎謎百万遍〉って、日本橋本町の大店ばかりが講元になっている。それが全部ぐるなんて、それこそありえない」
里哉は、手元へ戻った第六の謎かけを床に置いた。
「今さらなのですが、これが音哉だと思う理由は、それだけではありません。おふくさんが先程教えてくださった『
「どういうことだい、お里」
焙り餅の皿に手もつけず、里哉は謎かけの紙片を見つめるばかりだ。
倫太郎は、茶器を置いた。
「ならばまず、深川へ戻ろう。戻ってから、話を整理してみよう」
(続く)
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