70話 妻戀稲荷
翌朝、「少し遠出をしよう」と倫太郎は里哉を誘った。
「どちらへですか」
どことなく他人行儀に、里哉は問い返す。
「神田だよ。明神様の近くに有名なお稲荷さんがあってね」
「まさか」
息を飲んだ里哉へ、倫太郎は微笑んだ。
「そう、妻戀稲荷だ。願掛けの絵馬を掛けに行くから、おまえもおいで」
「あの、それは〈閻魔の狐〉と連絡を取る方法だとお聞きしました」
「そうさ」
事も無げに言い、履物へ足を落とす。
「倫太郎様、〈狐〉は音哉です」
「わかってるよ。もう一度会いたいだろう」
板戸障子を引くと、朝日が差し込む。
「わたしもさ」
すでに七月も二十日を過ぎた。暦の上では秋になったが、まだまだ爽やかとは言い難い。二人は大川(隅田川)沿いを川風に吹かれながら北へ、永代橋から柳原の土手を通り、昌平橋を渡って神田明神下を湯島へと向かう。
深川を発って半刻(約一時間)もすると、武家屋敷と町方が入り組み、築地塀に緑も多くなる。やがて西へ折れ、ゆるく曲がった坂を上る。妻戀坂を登り切った先に、稲荷関東惣社妻戀稲荷はあった。
同社の縁起は定かではない。日本武尊が東征の折、荒天を鎮めるために入水した妻、
それがいつの頃からか、「恨み返しのお狐様」として巷に流布するようになった。お上が助けてくれぬ恨みごとを絵馬に掛け、まことならば〈閻魔の狐〉が晴らしてくれるというのだ。
しかし、実態はない。他言すれば、本人に返る。噂は多いものの、どこの
例の和久井屋の一件がなければ、知ることもなかったろう。
里哉は倫太郎に従って参拝したあと、社殿の奥にある
「何を見ているんだい」
「どんな恨みを晴らしてもらいたいのか知りたくて」
しかし、そのような書付はない。娘への良縁、新しい店の商売繁盛、豊作祈願と、ごく当たり前のものだ。
「ここだよ」
倫太郎は絵馬の表、狐の顔を示した。
「ここに朱を入れる」
言われてもう一度見直すと、いくつかの絵馬に印があった。
「さあ、お里は何を願うかい」
里哉は妻戀稲荷の絵馬を渡され、矢立から筆を出した。
──たづぬる迷子 おさと
倫太郎の差し出す朱墨で、狐の頬に「井」と書く。
「さあ、あとは待てばいい」
倫太郎は絵馬を掛けながら言った。
「すまなかったね、黙っていて。連絡があっあら、二人で会おう。私はそうしたいが、構わないかい」
里哉は考え、首を振った。
「私ひとりで会ってもよいでしょうか」
「どうしてだい。正直、心配だ」
倫太郎が再会した篠井音哉は、〈閻魔の狐〉と名乗る義賊となっていた。
里哉が再会した二子の弟は、手下を使って兄の身を攫った。
「音哉は……音は、私と話したかったのだと思うのです。だから、私は逃げたことを悔やんでいます」
倫太郎は首を傾げ、やがて頷いた。
「わかったよ。音哉のことは、お里が一番わかっている。でも、私も近くまでは行くからね。それだけは許しておくれ」
「もちろんです」
強いて笑顔になりながら、里哉はおのれのこころに問うていた。
(本当に、私は音哉のことを一番にわかっているのだろうか)
確かに、以前はひとつであったが、今も変わらずひとつなのか。
「あ」
鳥居を潜りながら、突然里哉が声を上げた。足を止め、大きく見開いた目を瞬く。
「お里、どうした」
「解けたかもしれません」
「何のことだい」
中空をさまよっていた目が、倫太郎をしっかりとらえる。
「倫太郎様、解けたかもしれません」
こぼれるような満面の笑み。
「大根です!」
「で、どういうわけだ」
神田まで往復したにしても、時間がかかりすぎていた。すでに日も西に傾いて、夕闇が迫っている。
「すみません。日本橋の会所と、福籠屋でおふくさんにもお会いしてきたので、すっかり遅くなってしまいました」
「会所っていうと、例のあれか」
「はい、これです」
深川の花六軒長屋である。倫太郎の住居に鍋を持ち込み、
里哉から差し出されたのは、二寸(約六センチ)四方のほぼ真四角に折った紙だ。そして隅に小さく「八二」との朱書き。
「〈謎謎百万遍〉か」
「はい。これが第五の謎謎です。それで会所に寄ってもらってきました」
真慧は鍋をかき回しながら、眉根を寄せた。
「えらく深刻そうな面持ちで出かけて行って、土産はこれか?」
「不満かい、真慧」
倫太郎は、にこにこと笑むばかりだ。
「瓢箪から駒とは、よく言ったものだね」
里哉は、大事そうに懐へ戻す。
「あとで説明してくれ。とにかく飯にするから、お凛を起こしてきてくれないか。今日は患者が途切れずに、終わった途端、泥のように寝ちまった」
「では、私が」
里哉が立とうとするのへ、
「止めとけ。蹴られるぞ」
「私が行くよ」
長屋のいっとう奥がお凛の住居だ。ふた部屋のうち手前を診療所に、奥は万年床の住居となっている。
倫太郎が、お凛を呼ぶ声が聞こえて来た。
「お里坊、念のため言っておくぞ」
「何をですか」
里哉は膳を用意する手を止めた。真慧は背を向けて、
「お前たち兄弟のごたごたは、自分たちで解決しろ」
「わかっています」
「倫太郎を巻き込むな。いざとなれば、
「真慧さん」
「俺は倫太郎の為に動いている。おまえじゃない」
それに、と真慧は振り返った。いつも笑んでいる目が里哉を射抜く。
「昔から、おまえの弟が嫌いなんだ」
何と返せばよいのか。
里哉はわからぬまま、真慧の背を見つめていた。
(続く)
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