69話 背負うもの

 がやってきたのは、里哉と音哉がとうになった年だ。正月も明け、如月も過ぎ、雪は深いがかすかに春めいてきた弥生の末であった。


 父がやって来た。従兄とともに隠れ住む山奥の里へ、祖父に似た男と一緒だった。目の鋭さは父と同じで、同じように近寄り難い。穏やかな小春日和の午後。これから倫太郎と三人、ふきのとうを採りに行くつもりだった。


「覚えているか。赤瀬の叔父上だ」


 里哉と音哉が呼ばれ、板間に並んだ。

 赤瀬の叔父とは、祖父の異母弟だ。早くに分家し本家を支え続けている。


「音哉」

 父に呼ばれたのは、二子の弟だった。

「おまえは赤瀬の叔父上のもとで武学を修め、いずれ里哉を助けてくれ」


「父上!」

 驚いたのは里哉だ。

「音を外にだすのですか!」


 音哉は賢い。身も軽い。おのれよりも何でもできる。だから、ずっと側で助けてくれると思っていた。兄だから、たぶん父の跡はおのれが継ぐのだろうが、むしろ音哉が相応しい。だから、音哉がいなかったら──。


「はい。わかりました」

「音っ!」

 傍で弟は床に手をつき、父と大叔父を見据える。


「承知いたしました。赤瀬へ参り、里哉と篠井を支えてまいります」





 午後になって、倫太郎はどこかへ出かけて行った。里哉は風を通した座敷にひとり、裏の畑地に向かって文机を置いた。紙を広げ、筆をとる。

 おのれの心が乱れる時は、こうしてひとつひとつ紐解いていく。


 音哉、と書く。赤瀬、と書く。反対側に篠井と。それも紀州に残った本家篠井と、新将軍に伴って出府した江戸篠井。こんがらがった関わりと、倫太郎から聞いた話をひとつひとつ言葉に落とす。何が起きているのか。どうせねばならぬのか。考えても、考えても袋小路に行きあたったら、こうして書けばいい──それも、音哉かが教えてくれた。


(お里はね、考え過ぎるんだ。本当は、わたしよりずっと賢いのに、一度にたくさんのことを考えるからごちゃごちゃになるんだ)


 違う。賢いのは音哉だ。私には世俗を離れて、学問を修めるような暮らしがあっている。

 音哉は、誰よりもそのことを知っていた。だから、自ら赤瀬へ行ったのだ。


(お里はね、考えるだけでいいんだよ。私は走る役目をするから。ふたりで一つだ。別々に暮らしても、音はお里をずっと支え続けていくから)


 それなのに、十三の年に出奔した。


 なぜ飛び出したのか、どこでどうしていたのか。父に尋ねても首を振るばかりで、誰も教えてくれなかった。


 それから三年だ。おのれは元服して大人になったが──何も変わらない。

 おのれの字で埋め尽くされた紙に、答えはない。


(もう一度、音哉と話さないと)


 話して、戻ってくるよう頼むのだ。二人でまた暮らす。ここで共に暮らせばいい。倫太郎と音哉とおのれと、篠井の里で暮らした幼い頃のように。

 話せばきっと。


(私はもう、泣き虫のわらわではないのだから)


 里哉は、筆を置いた。片付けようとして、ふと思い至る。


(なのに、なぜ私は逃げた……?)





 二木ふたき倫太郎は、南町奉行所の町廻り同心、堤清吾を訪ねていた。


 日本橋のよろず屋吉次宅へ寄ってみると、今日は非番だと言う。倫太郎はその足で、八丁堀にある組屋敷へと向かっていた。


──そんなにお急ぎなら、呼んできましょう。


 吉次は町人の風体だが、町役人の堤を畏れる様子がない。立居振る舞いからも、恐らくは武家の出だろうと察していたが、無論、問うことはない。

 行ってみるからと案内を書いてもらい、楓川を渡って東へと向かった。


「確かに。これは難しいな」


 念を押されたのも納得だ。八丁堀一帯約三万坪の土地に、南北町奉行所の与力、同心合わせて三百人ほどが住んでいるのだ。堤は三十俵二人扶持ぶち。言ってみれば足軽の身分である。


 吉次の図を頼りに三度ほど人に尋ね、目当ての住居へと行き当たった。

 木戸門の表札を確かめ、長屋のように棟続きの建屋を窺っていると、


「二木さんじゃねえか」


 振り向くと、涼しげな白地のひとえを着流した堤清吾が立っていた。片手に折りを下げている。


「何か用かい」

「実は、少し教えて頂きたいことが」

 堤は、ちらりと浮かべた笑みを納めた。

「上がっていきなと言いてえが、どうやら外の方がよさそうだな。近くに寺がある。そっちにしよう」


 少し待っていてくれ、と一旦門の奥へ消え、程なく手ぶらで戻ってきた。追いかけるように年配の女の声がする。

「よいのですか」

 名を連呼している。どうやら母親らしい。

「いいから、いいから。早く来な」


 堤が連れて行ったのは、玉圓寺という浄土宗の寺だった。山門を潜り、ぶらりぶらりと並んで歩く。それほど広い寺ではないが、なかなかに立派な本堂がある。


「で、なんだい」

「〈狐〉について教えて欲しいのです」

「狐とは、〈閻魔の狐〉かい」

 堤は足を止めた。

「ええ」

「今度の〈謎謎百万遍〉に関わりでもあるのかい」

「わかりません」

 倫太郎は、正直に言った。

「でも気になる、か。なんでだい、二木さん」

「まだ言えません」

「事情は言えねえが知りたい、そういうことかい」

「まあ、そんなところです」


 堤は、歩き出した。


「そりゃ、ちょいと虫が良すぎねえか」

「そう思います」

 喉で笑う。

「で、一体何が知りたい」

「和久井屋の一件以降、例の〈狐〉の動静を。できるだけ、詳しく」

「詳しく、ねえ。高くつくぞ」

 今度は、倫太郎が笑む番だ。

「世の為、ご政道の為ならばいくらでも」





「里哉殿、どうされた」


 畑地の真ん中、桜の下に座り込んでいた。その姿に声を掛けたのは、長屋の差配(世話役)、小川陽堂ようどうだ。八卦見の大男で、年の頃は里哉の父と祖父の間ぐらいだろう。


 陽堂は、里哉の横に蚊遣りを置いた。

「この時期の蚊は厄介ですからな」

 少し陽が傾くと、一斉に動き始める。そのまま戻ろうとする背を、声が追いかけた。


「陽堂先生、ひとのこころとはどのように推し量るものですか」

「こころ、ですか」

 陽堂は、里哉の傍らに腰を下ろした。


「昔はわかっていたのに、今はわからない。どうしたら、昔のようにわかるようになるのでしょう」

 独り言のような問いだった。

「心根を知りたいと思う人がいるのですか」

「はい」

 陽堂は、少し考え込んだ。


「なぜ知りたいのですか」

「なぜ」

 里哉は繰り返して、黙る。


「人の心を知りたいと思うのは、ごく当たり前のことです。それなのに、里哉殿はなぜ悩んでいるのですか」

「……以前は、手に取るようにわかったのですが、今はまるでわからない」

「なるほど」

 陽堂は、幾度も頷く。


「ではまず、考えてみて下さい。その頃の里哉殿と、今の里哉殿はまったく同じことを考え、思うておりますか」

 音哉と最後に会ったのは、四年近く前だ。里哉は首を振る。


「でも、以前は息をするようにわかっていました」

 自然に、水を飲むように。

「でも、今はわからないのです。おのれのこころさえわからないのだから、当たり前かもしれませんが」


 いつになく投げやりな口調に、陽堂は穏やかに返す。


「そうですね。当たり前かもしれません。だから言葉があります。しかし、言葉があっても、それぞれのこころには最後の陣地のようなものがあって、譲ることはないのかもしれません。つまり、分かり合えぬのが人ではないでしょうか。だから、互いに分かろうと歩み寄る。そのことこそが大事と思うのですが、どうでしょう」


 里哉は陽堂の言葉を吟味するように、口中で繰り返す。


「答えがなくともよい、ということですね」

「答えは、どこかに在るのかもしれません。しかし、大事なことでしょうか。答えがあるとしたら、すでに定まった過去のことではないですか。里哉殿が知りたいのは、その方のこころですか」

 首を振る。何度も。


です。いまのこころが知りたい」

「つまり、わからなくて当然なのですよ」

 陽堂は裾を払って立ち上がる。


「言い包められた、とでも思って下さい。筮竹では、まず、ひとのこころを読んだと思わせることが要になりますのでな」


 里哉は曖昧に頷き、雲の湧く夏空を見上げた。





(続く)






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