68話 大尽の舟
咲匂ふ 桜と人に宵の口
野暮は揉まれて粋となる
此処を浮世の仲の町
恋に焦がれて助六が傘さして
濡れに廓の夜の雨──。
三味の音が、ぴたりと止んだ。
「
声をかけたのは、大黒様のような
「
隅田川は、竹屋の渡しに近い寄洲沿いだ。葦の小山に隠れ、淵になった辺りである。興が高じ、夜分漕ぎ出したのだろう。小振りな屋根舟は
「いえね、ご隠居様。水音がしたような」
「そりゃ、舟の上だ。水音のひとつやふたつ」
しかし、勝弥と呼ばれた深川芸者は撥を置くと、裾を捌いてにじり下がる。
「もうし、船頭さん。なにか変わったことはござんせんか」
櫓を操る、若い男へ声を掛けた。
「姐さん、実はあっしも、どぶんという音を。ありゃ、身投げの音でさ」
「ならば、急いで舟をやっとくれ」
「勝弥、お待ち」
芸妓は、舟主を振り返った。
「紀文のご隠居ともあろうお方が、身投げした哀れな女を見殺しになさるんですか」
吉原遊廓も近い。どうにかこうにか足抜けした女郎が、身を儚んだのだろう。
紀文こと紀伊國屋文左衛門は、盃を置いた。老爺と見えたが、背筋を伸ばすと、さすが世に知られた
「おまえさんに理があるね。多吉さんや、舟をやっとくれ」
「へい」
船頭の多吉は葦の隧道をいくつか抜け、川下へと舟を繰る。岸へ近づきすぎると底を擦る。慎重に櫓を操りながら、知り尽くした流れを追っていった。
勝弥は提灯に火を入れ、簾を繰り上げてあちらこちらの川面を照らす。
そこへ、にゆっと手が出た。
「ひえっ! 河童ですかい!」
船頭が叫ぶのへ、勝弥は袖を捲り上げ、手を伸ばす。
「多吉さん、馬鹿いうんじゃないよ! 子供だよ!」
次の瞬間、多吉が飛び込んだ。勝弥が掴んだ手首の下を、水の中から抱き上げる。
どうにか船縁に上げ、勝弥と文左衛門が引っ張り上げる。
ずぶ濡れの子供は転がり込むと、床に手をついて、水を吐き出し、咳き込んだ。
何か言いかけては、咳き込み続ける。
「あら」
小柄で若いが、月代を剃った成人だ。小袖に袴。水で元結が解けたのか、踞る薄い肩に、濡れそぼった髪が散っている。
勝弥は咳き込む背中をさすり、まず、濡れた着物を解こうとした。
「だ、だ、だい……じょ」
手を止めようと、言いかけてまた咳き込む。
「ほら、まずこれをお飲みなさい」
文左衛門自ら入れた白湯を渡すと、ようやく顔を上げた。
「里哉さん?!」
勝弥の声に驚いて、若者が振り向いた。目を瞬いて、声の主へ這い寄る。
「もしかして、勝弥さん。……ですか?」
「ええ、お勝です。勝弥ですよ。里哉さん、どうしてこんな真夜中の川の中に」
文左衛門は二人を交互に見遣り、船頭へ声をかけた。
「まず身体を拭いて着替えましょうか。──多吉さん。
夜明けを待って、知らせが飛び込んで来た。
二木倫太郎は女医者のお凛を連れ、先導する下男に従って、紀伊國屋の隠居所へと向かった。長屋からも近い、一ノ鳥居のある仲町一丁目である。
水路に面した家の外にも五十絡みの使用人が控えており、倫太郎は名乗ることもなく奥へ通された。
隠居所と言っても立派なものだ。一見大振りな造作ながら、随所に贅を尽くした意匠が窺える。
稀代の政商とは、一体どんな男であろう。その紀伊國屋に、なぜ里哉は助けられたのか。
案内された座敷に人影は二つ。紀文その人らしき老爺と、
「勝弥殿!」
「お勝ちゃん!」
朝日のなかで、深川芸者は艶やかな笑顔で会釈した。
勝弥は、お凛のすぐ上の兄、燿太郎の幼馴染だ。元は武家の娘で、燿太郎とは
「二木様とは、いつぞやのあなた様でしたか」
太い声の老爺は、倫太郎を見上げて自ら名乗る。
「手前が紀伊國屋の隠居でございます」
倫太郎はにこりと笑んで、示された上座に着いた。
「申し遅れました。二木倫太郎です。やはり、あなたが紀伊國屋文左衛門殿でしたか」
にこにこと、絵に描いたような好好爺振りだ。
先日、発句に勤しむこの老爺と出会った。深川八幡の御神木、大銀杏を二人で見上げ別れただけだが、なぜかこころに残った。それは文左衛門も同様のようである。
「この度は家人をお助け頂き、心より御礼申し上げる」
倫太郎は手をつき、頭を下げた。文左衛門は目を細める。
「どうぞお手をお上げください。お武家は、無闇についてはならぬものです。それに、気がついたのはこの勝弥で、引き上げたのは船頭の多吉さんです。私は舟の上で、うろうろしていただけでございますから」
「ほんと、その通りでございましたねえ、ご隠居様」
勝弥の混ぜ返す。
「倫太郎」
襖戸を開けた次の間に、いつの間にか里哉が座っていた。見慣れぬ地味な小袖の所為か、少し顔色が悪そうだ。
「お里」
倫太郎は歩み寄り、膝をつく。
「大丈夫か」
里哉は顔を上げ、何か言いかけたが、
「はい。ご心配をおかけしました」
「帰れるかい」
「はい」
また、俯いてしまった。
「紀伊國屋殿、この者を早く連れ帰って休ませたいので、失礼ながら、今日はこれで失礼します。また改めて御礼に伺いましょう」
お凛が里哉の手を採り、目を覗き込む。
「怪我はある?」
里哉は、幼な子のように首を振った。
長屋に戻っても、里哉は貝のようだった。何があったのか、話そうともしない。
知らせを聞いて泣きながら飛び込んできたおふくにも、「ご心配をお掛けしました」と他人行儀だ。
その日一日、倫太郎は里哉の思うようにさせておいた。この若い従兄弟は、誰よりも頑固な性分だ。納得がなければ、牛より重い。真慧が運び込んだ素麺にも手をつけず、蝉時雨のなか、石のように座したまま考え込んでいる。
倫太郎は翌朝になって、ようやく声を掛けた。
「何に怒っているんだい」
「ご存知のはずです」
倫太郎は、頭を下げる。
「悪かった。どう言えばよいのか迷っていたんだ」
「ほかのことなら別です。お、音哉のことなのに、なんで黙っていたんですか!」
「音哉、だったんだね」
「江戸に来てすぐ、倫太郎様と会ったと音は言いました。私は知りませんでした。倫太郎様も話してくださいませんでした。赤瀬の家から音が、音哉がいなくなってから、私は……」
「すまない」
里哉は、きっと目線を上げた。
「卑怯です。倫太郎様に謝られたら、私は何も言えません!」
「すまない」
里哉は拳を握りしめて、膝に置く。
「どうして音のことを教えて下さらなかったのですか」
倫太郎は頷くと、かいつまんでこれまでの経緯を話した。
原賢吾が発端となった和久井屋の事件に、音哉がどう絡んでいたのか。そして、〈白〉と名乗った賊と、〈狐〉こと閻魔の狐と名乗る義賊。双方の頭目が音哉らしいこと。
里哉の目がまん丸に見開かれ、音哉の告げた出奔後の暮らしと噛み合っていく。
── あのね、お里。今の私には、仕える
── 私のお仕えする方は、本当に素晴らしいお方なんだ。二人でお仕えできたら、あのお方の大望だってすぐに叶うよ。
(音は、一体、誰に仕えているんだ)
「お里」
すぐ目の前に、倫太郎の顔があった。心配そうに覗き込んでいる。深い目の色は、幼い頃から見慣れたものだ。
「どうした。夕べから何も食べていないのだから、せめて白湯を飲みなさい」
「父上は、このことをご存知なのでしょうか」
倫太郎は頷いた。
では、知らなかったのは己れだけなのだ。二子の弟のことだというのに。
「すまない」
目尻に涙が溜まる。
寂しかった。除け者になったようで、無用の者だと言われているようで、ただ寂しい。
里哉は拳を握りしめ、胸の痛みをどうにかやり過ごそうとした。
(続く)
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