67話 里哉、跳ぶ
「里哉はもう餓鬼じゃねえぞ」
「大事なのはわかるが、いつまでも
二木倫太郎は竹馬の友を見遣り、小さく溜息をついた。
「考えられることは三つだろうね。ひとつは道に迷った。ひとつは私を知る何者かの仕業。ひとつは」
言い澱む。
「音哉か」
「ああ」
真慧は、篠井兄弟の事情を知る数少ない人物だ。
「ひとつ目であって欲しい」
「そう思っているのか」
「お里に手を出せば、篠井の一族が動く。事情を知る者は、同時にその危険も知っているはずだ。私が目的ならば、その危険を冒す価値はある。私を誘い出すために、動きがあってもいいはずだ。その方が成功する確率が高いだろう。そうは思わないかい」
「随分と嫌な奴になったな」
倫太郎は薄く笑う。
「人の世はおそろしい。違うか、
真慧は無言だ。促すように腕を組む。
「だから、私は音哉だと思う。そうであれば、お里の身に害が及ぶことはない」
大源寺の和尚、良徳はこう言った。
互いの心がわかり大事に思うからこそ、道を踏み外すこともある、と。
音哉は、何故現れたのか。
音哉は、何を求めているのか。
「倫太郎、おまえ、まだお里坊に言ってなかったのか」
「ああ」
「しくじったな」
「わかっている」
「どうする」
「朝まで待つよ。それは変わらない。それまでにお里が戻らなければ、私から会いに行こう」
「神田の妻戀稲荷だな」
「ああ」
「原の旦那を連れて行け」
「おまえは来てくれないのか」
真慧は、目を細める。
「俺は飯炊きだ。お役が違う」
厠は、板戸に仕切られた、次の座敷の奥にあった。
「あたしだって、こころが痛むんですよ」
藤助は戸の際に立ち、背中を向けて話しかけてくる。里哉は用を足しながら、たちこめる臭気に顔をしかめた。夜分とはいえ、まだまだ暑い。床に置いた手燭が、ぼんやりと足元を照らす。
「本当は、人様を騙すなんて、あたしの性分に合わないんですけれどね。でも、ほら、おまんまを食っていくには、まず、やれることからやれってね。あたしは騙すのが得意なんで、ただ、それだけなんですよ」
どこにいても黴臭い。途中の座敷も、踏み込んだ畳が沈み込むようだ。微かな抹香臭さから、無人寺か廃寺だろうと思う。
「ああ、そうだ。眼鏡。置いてきてしまって、すみませんね」
里哉を前に立たせ、藤助は元の板間、おそらくは納戸へと導いていった。
「いや、ほんと。驚かせちまいましたよね。でも、あたしもびっくりしたんですよ。初めてサトさんにお会いした時、なにせ、お
里哉は目もくれない。藤助は、わざわざとため息をついた。
「怒って当然です。あたしだって、端切れ屋が面白くなってきたところだっていうのに、これじゃ店をたたまなけりゃいけない。惜しいっていうか、いっそのこと堅気になってやろうか──なんてさえ思っていましたのさ。深川あたりは、ほんと、賑やかでようござんすねえ」
里哉は座り直し、姿勢を正した。
「ま、夜明けにはお頭も戻るっておっしゃってるんで、それまでいい子にしていてくださいよ」
つい先日、この男がおのれに懸想しているなどと勘違いし、ひとり大騒ぎをしていた。それが、裏切られたようで腹立たしい。
と、何に腹をたてているのか里哉は気付いた。おのれ自身の不甲斐なさだ。無言で藤助へ会釈を返す。かといって、口をきく気にはなれない。
「横になって寝んでくださいよ。真っ暗で危ないですから、大人しくしていてください。サトさんに何かあったら、あたしがお頭に縊り殺されちまう」
子供に言い聞かせるような口調で言って、藤助の足音は遠ざかっていった。
(どうしよう)
このまま、音哉が戻るのを待つか。
(やっと会えた。無事だった)
胸に空い辰井穴が、満たされたような心地だ。
(でも)
でも、何故おのれを拐う。用があるならば、会いに来ればよい。それに、何故。
(何故、若様は音哉に会ったことを、私に言わなかったのだろう)
音哉と話をしたい。これまでどうしていたのか確かめたい。ただ、訊きたい。
藤助のことは、思いつきではないはずだ。音哉は用意周到だ。思いのまま動くように見えるが、そうではないと里哉は知っている。
(それに、お頭って……?)
里哉は改めて、おのれの周りを見回した。
八畳ほどだろうか。右隅に行燈がある。その横が出入りをした板戸だ。開けると座敷。藤助の声の響きようから、おそらくかなり広い。では、本堂か。
床に手をついて、部屋の隅から隅へ少しづつ動いていった。
音をたてぬよう積まれた道具類を避け、壁に指を這わせて辿っていく。目が悪いと、意外に闇は気にならない。
行燈を目安に、四半刻(約三十分)ほどかけてようやく一周した。
背後に、同じ様な板戸があった。
里哉は張り付くように身を寄せ、指先に力を入れた。
軋む。耳を澄ます。静寂は変わらない。虫の音だけが、遠く聞こえてくる。
里哉は息を整え、戸を横に滑らせた。
薄ぼんやりと明るい。黴臭さが薄れて、わずかな気の流れを感じた。外の風だ。広縁だろうか。
そっと踏み出すと、床が鳴った。
腰を落とし、這うように直進すると、気連格子戸に行き当たる。里哉は手をかけ、祈るように力を込めた。
すると、意外に容易く戸は滑った。思い切り外の風を吸い込んで、さらに降りる。欄干の間から、地面まではどれほどか。思い切って手を離すと、呆気ないほど簡単に着地した。
里哉は身をかがめ、建屋から離れる。薄暗闇を、おのれの勘に頼って進む。
水音がしていた。山谷堀が近いのか。ならば、
幾度か転び、汗だくになってようやくたどり着いた。そこには──。
(川……?)
ぼんやりとしているが、河面が一面ちらちらとしていた。山谷堀にしては広すぎる。
(隅田川……?)
遠くにかすかに灯が見えた。音曲がせせらぎの合間に流れてくる。
(どこだ、ここは)
里哉は目を細め、距離を測ろうと一歩出る。
「危ない!」
落ちそうになって、慌てて身を戻す。
「サトさん、だめじゃないですか」
藤助が、いつの間にか背後に立っていた。
「暗いから危ないって言ったでしょう。さ、戻りましょう」
里哉は後ずさった。
足元で、わずかに地面が崩れる。水面まで、どれほどだろう。
「藤助さん」
「はい、何ですか」
「私はあなたが、大嫌いです」
次の瞬間、里哉は跳んだ。
(続く)
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