66話 里哉と音哉
幼い頃、里哉はいつも音哉の影にいた。里哉の前に、いつも音哉の背中があった。同じ日同じ時に同じ母から生まれたのに、なのに里哉が兄で音哉が弟だった。
「なんで、おとが兄上じゃないのかなあ」
幾度言ったかわからない。
「おとが兄上なら、お里はあんしんなのに」
「なら、ふたりで兄上になったらいいよ」
「ふたりで?」
「お里もおとも、ふたりいっしょ。ずっといっしょ」
音哉は唄うように言って駆ける。野を駆ける。山間の小さな里は日々狭くなっていく。音哉は優しい。どこまでいっても里哉に優しい。いつも里哉を守ってくれた。大事にしてくれた。これからも、たぶんずっと。
でも、それが──。
「久しぶりだね、お里」
「おと……?」
「うん」
里哉は、突かれたように飛び起きた。
「音哉!?」
途端、何かにぶつかった。額を押さえて呻めく。
同じように額を押さえた音哉が、やがてくすくすと笑い出した。
「やっぱり、お里だ」
万感の思いを聞き取って、里哉は闇の中で弟の姿を探した。おのれとよく似た面立ちのはず。しかし、きっと父とよく似た刺すような眼差し。でも、里哉へ向ける笑顔は寸分も変わらないだろう。音哉とは、目を見ただけで互いを思うこころが通じ合えるのだ。
紀州の山の中の深い深い神の
行燈が点いた。ひとつ、ふたつ。浮かび上がったのはどこかの屋敷の納戸だろうか。板間ということはわかる──否、寺社か。よく見えない。
そこでようやく、里哉は眼鏡がないことに気が付いた。
「聞かないの?」
すぐ近くで声がした。
「なにを」
「いま、どこで、何をしているのかって」
どこか楽しんでいるような口調だ。
「なんでお里がここにいて、私がここにいるのかって。どうしてお里が」
と、一息区切る。
「拐われたのかって」
里哉は目を見開いた。
「私を拐った? おとが?」
一気に思い出す。今戸橋に近い
「おふくさんは!」
音哉は落胆したかのようにため息をついた。
「お里、そんなことどうでもいいじゃないか」
音哉の声は、哂っていた。里哉は黙り、やがて膝を突き合わせるように座り直した。
「おと、いま、どうしてるんだ」
小袖に袴。一括りの髪以外、これといって変わったところも、暮らしに疲れている様子もない。しかし、里哉には何か違和感があった。たぶんおのれにしかわからないような、かすかな
「やっと聞いてくれた。あのね、お里。今の私には、仕える
内緒話を告げるような口調だ。
「赤瀬の叔父上の所を飛び出してから、結構大変だったけれど、或るお方に助けられてね。それ以来、私はその方の元でご奉公してるんだ」
「仕官したのかい」
首を傾げて咲む。
「ねえ、お里。私のところへ来ないかい。昔のように、ともに過ごそうよ。お里と引き離されて、どれだけ寂しかったかわからない。それに、私のお仕えするお方は、本当に素晴らしいお方なんだ。二人でお仕えできたら、あの方の大望だってすぐに叶うよ」
篠井の一族は、この百年あまり紀州徳川家に仕えてきた。五代藩主であった吉宗の宗家相続に伴って、里哉ら江戸篠井は出府したのだ。
「私がお仕えするのは、倫太郎様。それは音哉も変わらないだろう?」
「倫太郎様、か」
眼鏡はどこだ──里哉は歯痒さに口唇を噛む。二子の弟が考えることは、いつも手にとるようにわかっていた。今もわかる。わかるが、どこかおかしい。どんな顔つきで言っているのか、しっかりこの目を見て話したい。
「その倫太郎様から聞いてないのかい」
「え?」
「桜の頃かな。倫太郎様とお会いしたんだよ。倫太郎様も、私だってわかってくれたし、少し話もした」
音哉が、覗き込んできた。
「あれ、倫太郎様、お里に話さなかったんだ。どうしてだろう」
「いつ? どうして」
答えず、音哉は急に立ち上がった。
「ごめんね。少し出かけて来る。約束があるんだ。朝までには戻るから、ここで待っていて。これまでの話をしたいから」
「おと!」
姿がぼんやりと遠ざかっていく。
「藤助に、何でも言いつけてくれて大丈夫だよ。戸の外にいるからね」
「音哉!」
影が止まった。
「私のこと忘れてしまったのかと思った。藤助から渡してもらったのに」
「おと!」
躓く。したたか打ちつけて、痛みに肘を抱く。
すでに、音哉の気配はない。
幼い頃は、いつもこうだった。転んだり、躓いたり、それが目の所為だとわかったのは、十を過ぎた頃だった。音哉は俊敏だ。昔から、たぶん今も変わらず。
──倫太郎様から聞いてないの。
里哉は、懐から守袋を出した。藤助から貰ったものだ。中には、あとから手渡された黒い石が入っている。
(碁石だ)
たぶん、那智黒の。里哉と音哉しか知らない遠い思い出。
(まいったな)
何がどうしたのか考えないといけない。それよりも、早く戻らなければ皆が心配する。音哉と会えたのは嬉しい。胸に空いていた穴が癒えるようだ。養家から姿を消して、文字通り音信不通だったのだ。
いつか戻って来る。必ず自分のところへ帰ってくる。それだけは確信していた。
──倫太郎様、お里に話さなかったんだ。
(どうして)
どうして、と尋ねる声が大きくなる。しかし。
「藤助さん」
すべきことは、まず。
「居ますか、藤助さん。厠に行きたいのです。すみません!」
音哉は里哉を残して納戸を出ると、控える藤助へ頷き、提灯を手に広縁から庭に下りた。
無人寺のようである。手入れは行き届いているようで、伸び過ぎた草木以外、荒れた様子はない。
「性悪な奴だ」
庭石に座った浪人者が声をかけてきた。音哉よりも年嵩の、体格も数段上の男である。着流しに両刀を落とし差し、月代が伸び放題の見るからに物騒な様子だ。
「二子の兄上は、おまえを許さないかもしれんぞ」
「大丈夫。お里は私と違うから」
「まあ、お前がよいなら構わんがな」
「左近、ならば黙っていてくれ」
「承知。お頭」
息を飲んだ。いつの間にか、両刃の短刀が浪人の喉元に吸い付いていた。ゆっくり腕を外す。
「そう苛々するな」
「これは私の問題だ。口を出すな」
男は欠伸を噛み殺し、音哉に従う。
「勝手にしろ。俺は高みの見物と行こう」
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます